しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。(ローマ人への手紙10:14,17)
キリスト教では、この世界は神が創造されたのだと言われているのだが、例えば教理やそれぞれの教派における規則などは人間が作り決めたものだと私は考えている。人間が作ったものだから、分派が生じるのだ。
例えば、私の所属している教派では、教会憲法第8条の2に、「長老は、教師と共に教理を擁護する務めを負い、教会会議において教師と同等の責任を持つ」と記されている。
教理を擁護するとは、牧師の説教を擁護するということに他ならない。
そのためには、長老達が説教を聞いて実質的に牧師を招聘するのでなければならない。
独立教会の場合、牧師招聘の決定権は、長老達にある。
しかし、これまでほとんどの教会で前任者が、あるいは中会の役職牧師が後任牧師を決めてきたのではないだろうか?
夫は、この部分にも拘りを持っていて、自分が去って行く教会の後任を決めることは決してしなかった。
その代わり、毎年のように他から牧師を呼んで、長老や教会員が色々な牧師の説教に触れる機会を設けていた。
無牧の教会の小会議長をしていた時も、呼ぼうと考えている牧師に説教に来て貰い、長老達がその説教を聞いて、長老達が説教に責任を持って決定するように補佐していた。
ある時、長老の中のお一人がどうしても呼ぼうとしている方の説教が聞けないということで、夜、何度か相談に来られて、遅くまでその長老の話を聞いていたことがあった。それ程に、牧師の招聘のために時間をかけていたということだ。この8条の2を大事に考えていたのだ。
良く、「スイスの改革派の教会では、説教者が説教をし終えて講壇から下りると、長老達が握手で迎える」という話をしていた。夫は、そういうところを目指していたのだろうと思う。
長老達は説教を聞いて招聘を決めなくてはいけない。教会全体が、説教を聞く機会を与えられない場合は、教会員は総会において長老に信頼して賛意を表す他はないのだから。
私は夫ほど規則や決まりに拘らない方だ。結局それらは神ではなく人間が決めたことだと思っているからだ。
しかし、決めておいて端から守ろうとしないというのはどういうことか?と思う。
憲法も規則も体裁や飾りでしかないということだ。
それはつまり、神への冒瀆につながるというものだ。
神を信じるが故に、神を宣べ伝えようとするが故に作った決まりなのだろうから。
私は、夏期伝道に来た夫の説教を聞いて結婚を決めた。生涯聴き続けることになる説教なのだから。そして30年、その説教を聴き続けてきて幸せだったと思う。
夫が倒れて集中治療室に入れられ、看護師さんから声をかけてあげて下さいと言われた時、「私は、あなたの説教を聞いて来れて幸せだったよ。エレミヤも楽しみにしていたんだからね、だから頑張って戻ってきてよ」と声をかけて、別れてきた。
そうして、夫は、意識を取り戻した。
「パンのみに生くるにあらず」わたくしは言(ことば)を食べて生きております