このところ、直接面会することができるようになったので、倒れた後に頂いたお手紙を持って行っては少しずつ読み聞かせている。
その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル書3:1)
夫は、牧師だけが語るのではなく、教会員一人一人が福音を語れるように支えるのが牧師の務めだと考えていたようで、最初の赴任地から自分が留守の折の説教を長老達にして貰うようにしていた。
以下に引用するのは、夫が赴任した後に長老に選ばれた婦人から頂いたお見舞いの手紙である。
先生のお説教に出会って、イエス様をまったく近く感じ、○○○さんとそのことを話しては意気投合したものでした。
私が初めて長老に選ばれたとき、その務め、心構えなどまことに丁寧にお教えくださりありがたいことでした。
先生がお留守のとき、あるいは春、夏の休暇の折、長老の説教・奨励となりますが、いつも細かく配慮してくださって、いろいろ教えていただきました。
この方が最初になさった説教は夫が作った説教だった。私はそのことを知っていたので礼拝の後に、「良いお祈りでしたね」とお祈りを褒めた。
すると、「お祈りも先生が考えて書いておいて下さったものなんです。私はそれを読んだだけです」と応えられた。
私はお祈りまで書き置いていたとは知らなかったので、慌てて、「でもそのお祈りを祈ることができたということは、もう○○さんのお祈りになっていたということだと思いますよ」と言ったのだった。
しかし考えてみれば、祈りも祈りの群れの中で聞き覚えて真似をして祈るようになるものだ。
そして何よりイエス自身がこう祈りなさいと主の祈りを教えて下さっている。私たちはそうやって教えられた祈りを祈り続けているのだ。
それにしても、神学校を出たばかりの26,7の頃から、自分の親くらいの教会員を相手にこんな指導をしていたのだから、我が夫ながら、凄いよね(笑)。
どうか ○○先生はじめ ○○さん ○○ちゃん
ご自分のしんどさをこちらに微塵も感じさせないお手紙の筆致に、お人柄を偲びたい、と思った。