風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

祈りの中で・・

長老がしていた献金の祈りを教会員全員で順番にやるようになって何年が経っただろうか。初めは色々ゴタゴタしたが、このところ、良いお祈りが続いている。

昨日の礼拝説教は創世記22章1節〜19節からだった。この後、この日の当番の方は、アブラハムにイサクを献げるように命じられるあなた(神)に対してずっと疑問を感じていました、と祈られた。この祈りは説教が引き出した祈りであった、と思う。
体裁を整えた祈りではなく、神への不信も疑問も、世の中の不条理に対する不満や苛立ちも隠さずに、神に訴える祈りによって、全体が育てられると思う。
良い説教が心からなる祈りを導き出し、心からなる祈りが説教者を励まし、教会全体を祈る群へと育て上げるのだ。


ある時私は、一人の教会員に「今日のお祈り、素晴らしかったねぇ」と言ったのだった。本当はその後に「あなたのお祈りを聴けて嬉しかったよ」と言いたかった。けれど、思いが胸にあふれて言葉にならなかったのだった。
その祈りから、これまでその人が歩んでこられた人生が見えたように思えた。献金の祈りを皆で順番にまわしていなければ、その人がこんな祈りをすることも知らないままであったろう。

私たちキリスト教徒は祈りの中で神に出会い、人に出会うのだ。
神に向かって祈る祈りの中にその人を見出し、その人を深く理解するのだ。だからこそ、一人一人の祈りの最後に皆で「アーメン」を唱和するのである。


  神よ、天の上に高くいまし
  栄光を全地に輝かせてください。

あなたの愛する人々が助け出されるように
右の御手でお救いください。
それを我らへの答えとしてください。(詩編108:6~7)


詩編のこの祈りは私たち全てのキリスト教徒の祈りでもある。