風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

言葉というのは・・。

この前の日曜にお聞きしたお説教は落語のような語り口調だと思った。「そうこうしているうちに」というような言葉によってそう思わされたのだが、奇しくも同じ日の別の牧師の説教でも同じ言葉をお聞きして、そちらの方では落語調には聞こえなかったのだった。

不思議なものだ。

 

文は人なりと言うが、発した言葉というのもその人の本質を表すように思えることがある。

 

牧師の妻というのは、他の牧師の奥さんと会うということはあまりないのではないかと思う。

北海道では、「牧師夫人の会」というのがあって定期的に集まっていたのだが、私は一度も出なかった。

「牧師夫人の会」という名前が先ず嫌なのだ。自分達のことを「牧師夫人」等と呼ぶのか?と思ってしまう。「牧師の妻の会」だったら、もしかしたら1回ぐらいは参加していたかも知れないと思うが・・。私という人間はこんな風に偏屈なところがあるのだ。

 

そんなことで、私の場合、あまり他の牧師の奥さんと交流するということはなく、会ったことがあっても1、2度だけだったりする。

 

それが最近、用があってお世話になっている近隣の教会に行った。

それで会堂を見せて頂けるというので、建物には興味があるので玄関先で失礼するところを中に入った。

オルガンの調律をしているということだったので、教会員のご婦人が来ておられるのだと思って、出てこられた婦人に「○○教会の○○です」と挨拶した。

私はこの教会には来たことがなかったので挨拶しなければ分からないだろうと思ったからだ。

すると、その婦人はさっと近寄って来られて、私に触れる直前のところで手を止めて私をふわりと包むようにして、「大変だったね」と耳元でささやいたのだった。

マスクもされていたから分からなかった。

けれど、その言葉を聞いた途端、「○○さんだ!」と、先生の奥様だと分かった。

「大変だったね」というのは、夫が倒れた後のことを言って下さったのだ。

 

咄嗟に出て来た言葉というのはその人の本質を表すのではないかと思う。

私自身は咄嗟に言葉が出てこない人間なのだが・・。

 

今年のイースターの礼拝後は、昨年亡くなられた方の納骨式が行われた。

その納骨式を執り行って下さった先生は、泣いておられる遺族に向けて、「泣いたっていいんです。居なくなって淋しいし。でもキリスト教はそれで終わりではないんです」と仰った。

どんなに偉く立派な牧師でも、納骨式の中で、こういう言葉を発することはないだろうと思う。

この先生だから発した言葉だった、と思う。

 

この先生がこれからどれだけ素晴らしいお説教をして下さったとしても、私の記憶の中には、この言葉が残り続けるだろうと思った。

「泣いたっていいんです。居なくなって淋しいし・・」

 

 

 

 

今日の玄関には、

千両は色づいて来たが全然開かない。もしかしてこのまま赤い実になるのだろうか?