風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

〈説教〉について(しつこく説教について考察する!)

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この説教の冒頭では、「わたしたちの信仰は伝えられたものです」と語られている。

説教も、「伝えられたもの」、「聴いてきたこと」、「受け止めた事柄」を語るものではないか、と思う。

だから同じようなことを語っているということが起こってくる。

 

以前、夏期伝道で実習に来られた方から、「先生のお加減は如何ですか?」と電話を頂いた。

説教が出来なくて、説教が出来ない自分なんかが牧師をやっていてはいけないと思い悩み、先生にご相談したら、「色んな説教を切り貼りしたとしても、それを自分の中で消化できたのなら語って良い」と言って下さって、なんとか今も牧師をやっています、と。

 

夫も中会の書記等をしていた頃は忙しくて説教の準備もままならないようだったが、複数の注解書に目を通していたようであった。同じ箇所からの説教を他の牧師から聞いた時に、同じ注解書を読まれたかな?と思うことがある。

 

説教で語るべきことは何か?と言えば、それは、福音、キリストのことだ。

イエス・キリストが私たちの罪を贖って下さったということだ。

つまり説教で語るべき事というのは、たった一つのことなのである。だから福音を語った説教は同じような説教になってしまうのではないだろうか。

 

一人の人間の説教でも、この前の礼拝で語ったことと同じ、という場合もある。

私も、夫の説教を聞きつづけてきて、「それ、この前も同じこと言ってたよねぇ」(心の中で「ちょっと聞き飽きたかな?」)と思っていることもあった(笑)。

 

本当に福音を語っていれば、〈同じ〉ということが起こってくるのだ、と思う。

 

その同じ内容の説教が、説教者によって変わってくるのは、語られた福音をどれだけ説教者自身が自分への福音として受け止めているかということになるだろう。

 

そしてその同じ説教が、〈聞く側〉によっても受け取られ方は変わってくる。

それは、この前代読して頂いた種蒔きの譬えで語られていたように、蒔かれた土地で違ってくるということだ。https://myrtus77.hatenablog.com/entry/2023/06/04/223436

 

これについては、これまでも何度かブログにも書いてきたが、牧師として最初に赴任した教会でのエピソードが分かり易い。

ある時の説教で、礼拝後一人の婦人が「今日のお説教、とても良かった!」と言って喜んで帰って行かれた。その直後、別の婦人は「今日のお説教はとても聞けませんでしたっ!」と怒って帰って行かれたということがあった。

夫はこの後、「同じ説教を語っても喜ばれることもあれば怒られることもあるんだから、自分は聖書が語る福音を語るだけだ」と悟りを開いて(開き直って)いた(笑)。

 

しかし、この怒って帰って行かれた方は、「いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(https://myrtus77.hatenablog.com/entry/2023/06/04/223436土地の持ち主だった、と思う。

この方は、キリストによる救いではなく、人間(自分)の信仰が誉め讃えられることを欲していたのである。

 

福音が語られているにも拘わらず説教が聞けなくて教会を去って行く人については、去るままにするのが良い、と私は思う。

むしろ、人間を讃美する説教が語られ続けてそれを喜ぶ人間が信徒として居続け、そういった教会がキリストの教会として持て囃されることの方が問題だと私には思える。

そういった教会は滅びる方が良いのだ。そしてそれが主の御心ならば、いずれ滅びる。

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主は言われた。「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ書6:9~10 新共同訳)

 

イザヤ書6章のこれらの御言葉は、葛原妙子の短歌を読み解こうとした時に、散々考えぬいた御言葉であった。

「葛原妙子13」(https://myrtus77.hatenablog.com/entry/20120326/p3

 

夫が過去にしたマルコによる福音書4章1節から20節の説教を見ると、以下のように語った部分があった。

(略)

「この種はイエス キリストそのもの」だと言っているのだ。

イザヤ書の「聖なる種子」もイエスキリストを指している。

 

すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。(ローマ人への手紙11:32 口語訳)

 

20代の頃、初めて新約聖書を読んだとき、このローマ人への手紙の言葉に捉えられた。

そして、62歳の誕生日を迎えた今日、イザヤ書の御言葉がこのローマ人への手紙の御言葉へと繋がっていった。

切り倒された切り株から生え出たイエスキリストの到来によって、外側にいた者が内側へと入れられる、救いの大転換が起こったのである。

外にいた私たちが、今、救いの内側へと入れられている。

 

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ここで、昨日抜粋した夫の説教を再度引用しよう。

    実りに差はあるが,必ず実る。なぜならこの種はイエス キリストそのものであり,キリストの命によって実るから。「はっきり言っておく。一粒の麦は,地に落ちて死ななければ,一粒のままである。だが,死ねば,多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)(マルコによる福音書4:1~20からの説教抜粋)

キリストは、地に落ちて死に、多くの実を結ばせるために私たちのところへと来てくださった。

外側にいた者が内側へと入れられる「救いの大転換」が、イエスキリストの十字架の死と復活によって起こるのである。