風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「主を見つめて」(使徒言行録3:1~10)

今日は、4月から月に一度来て下さることとなった先生によって礼拝が守られた。

簡略原稿から以下にお説教を掲載させて頂く。

  「主を見つめて」               使徒言行録 3:1〜10

 ペトロは言います。「わたしには金や銀はない。」それは施しを求める足の不自由な男の期待を、無惨にも打ち砕くひとことでした。しかし、ペトロの言葉は続きます。「が、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」その時、彼に思いもよらなかったことが起こりました。彼は自分の足で立ち、歩む存在へと変えられました。神を讃美し、礼拝する、人間の最も本来的な、最も喜ばしい姿へと変えられたのです。その経緯をご一緒に聴いていきたいと思います。

 

 使徒言行録は、イエス様が十字架に架けられて死なれ、三日目に復活された後の出来事を記しています。この中には、教会が誕生し、イエスさまの働きを受け継いだ使徒たちが宣教活動する様子が含まれています。今日の個所は、キリスト教会が誕生したばかりのとき、「教会」という形もまだはっきりしていないようなときに起こった出来事です。

 

 ペトロとヨハネは、それまで行ってきたようにエルサレム神殿へ上り、神様に祈ろうとしていました。すると、神殿の門のそばに、生まれながら足の不自由な男性が運ばれてきました。彼は、たまたまこの日だけ、神殿の門へと運ばれてきたのではありません。彼は毎日、神殿の門のそばに連れて来られました。神殿に来たからといって、彼は神殿の中に入って祈るわけではありません。彼は神殿の中に入ることはできず、神殿の門のそばに置かれていました。

1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。

 彼らは祈りに行ったのです。はじめから、足の不自由な男性に会うため、また彼を癒すために出かけたのではありません。

 

2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。

 運ばれて来た、そして置いてもらっていた、とあります。これは人に関する表現としては甚だ不適切です。まるで物のように運ばれ、置かれていた。生まれながら足が不自由な彼は、生きるために施しを受けるしかありませんでした。今日以上に障がいを負った人が生きていくことは困難でした。彼の置かれた門の名が「美しい門」だったということが皮肉に聞こえるほど、彼の日々には憂いと嘆きが満ちていたことでしょう。

 

 しかし、彼らは出会いました。主によって出会わされました。

 

3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。

 名前も記されないこの男の人は、立つ、歩く、という希望を失っています。とりあえず、彼に必要なのは金や銀という具体的な生活の助けとなる施しでした。だから彼からペトロとヨハネに施しを乞うたのです。

 

4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

 「わたしたちを見なさい」この言葉は彼に一瞬の期待を持たせたでしょう。何かもらえる、と。

 「美しい門」は施しを乞うためには、道端よりも良かったのです。神殿に祈りに行く人たちは、財布の紐を弛める可能性が高かったと言うべきでしょう。

 さて「わたしたちを見なさい」と言われて、

5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていた

 彼は二人のどこを見たでしょうか。顔でしょうか?全身でしょうか?彼らの手元、財布だったのではないでしょうか?誰から施しを受けるか、よりも「何かもらえると」とある通り、施しの金額の方が、彼の関心事だったと言えるでしょう。

 

6その彼の期待を打ち壊す一言「わたしには金や銀はない。」

 でもそれで終わらない。

 「が、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 立ち上がり、歩く。そう願うことも忘れてしまっていた男の人に思いもよらない呼びかけがなされ、力強い手がのべられます。

 生れながらにして足が不自由でしたから。彼は他の人が施してくれるような、僅かばかりの金銭を求めたのですが、彼に与えられたのは、生まれてからずっと彼を捕えてきたものからの解放だったのです。

 

7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。

 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 彼が本来なら願っていたはずの、立ち上がって歩き出すことが、できるようになりました。

 彼はここに「いた」だけです。それでも主は出来事を起こしてくださる。彼が願ってもいない、思ってもいないことが起こったのです。

 

 彼は、この言葉に勇気づけられて励まされて、立ち上がりました。

 立ち上がるには、決心が必要です。力が必要です。立ち上がったら、歩く。歩くとき、一歩を踏み出さなければならない。どちらかの方向に向かって、一歩を踏み出したら、もう一方の足を踏み出さなければならない。自分で方向を決めなければならない。歩き出すのは大変なことです。

 ペトロは、その人の右の手をとって、立ち上がらせました。手伝ってあげるから、立ち上がりなさい、と。彼は立ち上がり、歩き出すのです。

 イエスキリストの名によって、立ち上がり、歩き出した。そして続いて、彼が取った行動は、歩き回ったり踊ったりして、神を賛美し二人と一緒に境内に入っていくことでした。

 

 実は、3節から5節の短い間にある4つの「見る」という動詞はすべて異なる言葉が使われています。

 注目したいのは4節の2つの「見る」、つまり「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」それから「わたしたちを見なさい」です。1つ目の見るには相手の中にある苦しみや悲しみ、社会の無関心、そしてそれに対する彼の諦めを見てとる「見る」、

2つ目の見るには、「私たちに心を向けなさい。心で私たちとしっかり向かい合って見なさい」という「見る」の意味が込められているのです。

 

 十字架と復活のイエスさまの名を帯びて聖霊によって派遣された使徒たちが、自分たちを見よ、自分たちを通してイエス・キリストを見よ、と呼びかけたのです。

 十字架の下ではイエスさまを知らないと言って逃げた彼らが、自分たちを愛して死に、復活されたイエスさま、自分たちを赦してこのように立たせて下さるイエスさまのお名前を、最も大事なものとしてこの人に手渡したのです。

 

 この男性は生まれてこのかた受け身のままの人生でした。運ばれ、神殿の門のそばに置かれ、人々が何か自分にくれることだけを期待する。それが彼の「あたりまえ=日常」でした。

 また周囲の人々もそんな彼が「あたりまえ」の光景の一つでした。

 

 しかしイエス・キリストの御名は彼を立ち上がらせました。自分の足で歩かせました。そして神への賛美を彼の口に与え、礼拝する者とされたのです。

 彼はキリストの名によって生きる者、新しい自分を与えられました。周囲の人々が非常に驚くほどに。

 

9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。

10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

 これは、ひとりの男性のからだの癒しを語っただけの出来事でしょうか。

 ペトロたちは聖霊に満たされて、新しいものに造り変えられています。

 そのうちには、ナザレの人イエス・キリストを宿しています。 

 お互いがイエスさまのみ言葉を思い起こして、交わりによって、礼拝によって、祈りによってひとつとされています。

 その彼らが目を留め、足を運び、語りかけ、自分たちの内にあるイエス・キリストを証ししているのです。

 これが「生まれたばかりの教会の群れ」の働きであり、からだの癒しにとどまらない劇的な変化をもたらす象徴的な出来事として、凝縮してルカは書き記したのではないでしょうか。  

 

 イエス・キリストのみ名によって生きる時、私たちは勇気、喜び、希望、を与えられます。感謝、賛美を、そして他者への思いやりを与えられます。

 今悩みや課題の中で座り込んではおられませんか。イエス・キリストの御名に信頼し、この主の御名を見つめて、立ち上がりましょう。歩き出しましょう。賛美しましょう。礼拝しましょう。

 その時、あなたも私も他の人にイエス・キリストのみ名を伝えているのです。

 

この原稿には詳しく記されていないが、「わたしたちを見なさい」と語ったのは、あのペトロなのです、と語られた。イエスを三度知らないと言って逃げたペテロなのだ、と。

私は前日の夜に送られてきた原稿に目を通して泣けたので、泣ける部分はもう分かったから礼拝では泣かないだろうと思っていたところ、原稿にないペテロのくだりでまた泣けた。

そうなのだ!

裏切り者の私たちの内に主は宿って下さり、無力の中で蹲っていた者に力を与え、主の業のために用いて下さる!

 

 

ミルトスの木は…とこしえのしるしとなって、絶えることはない。(イザヤ書55:13)

常緑樹であるはずのこの木は、冬の間、黄色くなって枯れかけていた。

それを、執事さんが手入れして下さり、このように新しい葉を吹き出した。