風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

先日のお説教と八木誠一氏の著作から(愛について、聖霊なる神について)

 愛にとって人の資格や価値や意味は問題ではない。(中略)愛は計算ではない。

今、ここで出会っている、この人への集中である。一般的な善をより多く行なうということではない。

 神の愛がそうなのだ。八木誠一著『キリストとイエス』「イエスの思想」〈愛(対人性)〉よりp50)

 

愛とは、「今、ここで出会っている、この人への集中である。」

若い頃、この言葉に出会って、いつも胸に置いて生きてきた。

 

「一般的な善をより多く行なう」

この部分を読んで、ゴミ拾い等に命をかけている風な人を思い浮かべていた。

 

求道の頃、通っていた教会の牧師の奥さんから「あなた、どうしていたの?心配していたのよ」と声をかけられたことがある。しばらく休んでいて道でバッタリ出会った時に。

そういうことは一度だけではなく、同じ人からではなく、別の牧師の奥さんからも全く同じ言葉をかけられたという経験を持っている。

 

しかし、へそ曲がりの私がそういう言葉をかけられた時に、心の中で思っていたのは、「私のことをどこまで分かっていて、何を心配していたというのか?」ということだった。私という人間は全く可愛げがないのである。

 

それから後に牧師の妻になって、ああいう押しつけがましい言葉は求道者にも教会員にも私は絶対にかけない!と心に誓ったのだった。

 

ところが先日、昨年暮れからずっと心配していた教会員のことが気になって、思い切って手紙を書いた。

私という人間は、先輩教師から「そんな石橋を叩いて渡るような性格なの?」と言われた程に、行動に移すまでは、ああだ、こうだ、ぐだぐだグダグダいつまでもいつまでも考え続けているのだが、こうだ!と思ったら、すぐに行動せずにはいられなくなってガラリと性格が変わってしまう。

 

それで、手紙を書いて速達で送った。

具合の悪いところに手紙なんて書いたら余計気を遣わせてしまうかも知れないと思って手紙も出さずにいたのだが。「お返事は不要です」と書いたので、大丈夫だと思っていた。

 

ところが電話がかかってきて、「速達」という文字を見てドキッとしてしまった、と。

どうして「速達」だったんですか?と。

 

そこで私は、思わず、「ず〜っと心配していたので・・」と・・・。

ずっと心配していて、これだ!と思って手紙を書いたので、早く届け!と思って、速達にしてしまったのだった。

 

しかし私も地に落ちてしまったものだ。あれほど「口にすまい」とかたく心に決めていたものを・・。

 

上に引用した中で、八木誠一氏は「神の愛がそうなのだ」と書いておられる。

人間の愛ではないのだ。

 

myrtus77.hatenablog.com

 実は、3節から5節の短い間にある4つの「見る」という動詞はすべて異なる言葉が使われています。

 注目したいのは4節の2つの「見る」、つまり「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て」それから「わたしたちを見なさい」です。1つ目の見るには相手の中にある苦しみや悲しみ、社会の無関心、そしてそれに対する彼の諦めを見てとる「見る」

(略)

 ペトロたちは聖霊に満たされて、新しいものに造り変えられています。

 そのうちには、ナザレの人イエス・キリストを宿しています。 

(略)

 その彼らが目を留め、足を運び、語りかけ、自分たちの内にあるイエス・キリストを証ししているのです。

 これが「生まれたばかりの教会の群れ」の働きであり、からだの癒しにとどまらない劇的な変化をもたらす象徴的な出来事として凝縮してルカは書き記したのではないでしょうか。

 

このお説教の原稿には記されていないのだが、実際の説教の中では、「口語訳では使徒行伝と訳されています。これは聖霊行伝』とも言われていました」と語られていた。

 

つまり背後で聖霊なる神が働いておられたということである。

 

むしろ、愛に目覚めた人間は、その方向を選び取ってゆくのである。それを選び取らせるはたらきは、自分を超えた深みから出る。そのはたらきは経験される事柄であり、自覚に現れる。しかし、はたらきという場合、人はその出どころ、根源、あるいはその主体、はたらきの主(ぬし)に直接に出会うことはない。しかし、そのはたらきのぬしを「神」と呼ぶ場合、人は直接出会うことのない「神」を、はたらきの根源として「知る」。愛と、その自分を超えた深みは経験と自覚の事柄である。しかし、その「ぬし」は信仰の事柄である。知は、神を直接知るのではない。愛のはたらきが人間と世界とを超えた(超越した)ところから出ることを知る、という仕方で、人は神を「知る」のである。八木誠一『イエスの宗教』(岩波書店)p10~11)

 

これは、八木誠一氏の新しい著書である。

 

若い頃の私の思考の訓練に八木誠一氏の『キリストとイエスは欠かせない一冊だったが、聖霊についての言及は弱いように思える。「聖霊」という短い項を見ても、珍しく何も線を引いていない。今読み返しても、理屈っぽい気がしてすんなりとは読めない(笑)。

 

しかし、人が行動を起こすとき、そしてそれが的確な行動であった場合、そこでは聖霊なる神が働いておられるということなのだ。

 

聖霊なる神さまが働いて下さって、的確な行動が取れますようにと祈るばかりだ。

 

 

 

 

これから開こうとしているのと、散りゆくものと。