風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャを・・ー ドストエフスキー『罪と罰』

私は、『罪と罰』を読む前から、ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描いていると考えていた。そして『罪と罰』について書き始めてからもそのことを証明しようとするようにして書いてきた。けれど書きながら、予想とは違ったところへと着地するだろうと予感していた。

まだ『罪と罰』を書き終えたとは思っていないが、ここでそのことを記しておこうと思う。

 

「ソーニャ 2 − ドストエフスキー『罪と罰』」で、「カチェーリナについてのこの洞察、理解と受容、これはやはりソーニャをキリストとして描いているか、あるいはキリストに憑依された人間として描いているかのどちらかとしか言いようがないだろう」と書いた。

また、「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26」では、「ここでは、ラスコーリニコフがソーニャのことを「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」だと考えていたということが言われているのだが、ラスコーリニコフの捉えがそのままドストエフスキーの考えであるわけがないのだ」とも書いた。

 

しかし、ドストエフスキーはソーニャをキリストとして描きながら、一方でキリストではない私たちと等しい人間としても描いているのではないかと思い始めていた。

 

手持ちのキリスト教事典類には記載されていないようなのだが、神学用語に「内住」というものがあるらしい。キリストを信じた者の内に聖霊が住まわれるというようなことだろうか?

 

「内住」とは別に「内在」という言葉もあるようだ。こちらは辞典に記されている。

以下に抜粋引用する。

内在 ユダヤ教のアドーナーイ(主)、アリストテレスの不動の動者、西欧形而上学の神などのような超越的な神とは異なり、旧約は歴史の内に民とともに在る神、新約はこれを推し進めて人間である神イエスの内在を強調する。(略)以上の流れに対し、デカルト以来近世ドイツ観念論を経て他者や歴史や生活など一切を意識に還元しようとする意識内在主義が支配的となり、他者や歴史世界との現実的関わりが喪われる危機が生じた。(略)レヴィナスなどは全体主義に転化しやすい内在主義に批判的であった。(『岩波キリスト教辞典』)

 

「内住」か「内在」かは分からないがこういったことを表しているのが、ガラテヤの信徒への手紙だろうと思う。

 

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:20)

 

カラマーゾフの兄弟で、アリョーシャによって「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」と語らせる場面でドストエフスキーは、この体験を描き出していると考えられる。

 

ソーニャはこの体験を、『罪と罰』が始まる以前にしていたのではないだろうか?という考えが私の頭の中をよぎったのだった。可笑しな考えだと笑われるかもしれない。物語の始まる前に登場人物が何らかの出来事を体験している?

 

しかし私には、ドストエフスキーがこの二つの事柄を同時に描き出しているとしか今となっては思えないのである。つまり、ソーニャをイエス・キリストとして描いているということと、ソーニャを『罪と罰』以前にイエス・キリストを魂の内に迎え入れた人間として描いているという二つの事柄を。私が後者に言葉をつけるとするなら、「受イエス・キリスト」としたいと思うが・・。

 

さて、このように考えると、「受イエス・キリスト」という出来事は私たちにも起こりうるということである。

 

むしろ、愛に目覚めた人間は、その方向を選び取ってゆくのである。それを選び取らせるはたらきは、自分を超えた深みから出る。そのはたらきは経験される事柄であり、自覚に現れる。しかし、はたらきという場合、人はその出どころ、根源、あるいはその主体、はたらきの主(ぬし)に直接に出会うことはない。しかし、そのはたらきのぬしを「神」と呼ぶ場合、人は直接出会うことのない「神」を、はたらきの根源として「知る」。愛と、その自分を超えた深みは経験と自覚の事柄である。しかし、その「ぬし」は信仰の事柄である。知は、神を直接知るのではない。愛のはたらきが人間と世界とを超えた(超越した)ところから出ることを知る、という仕方で、人は神を「知る」のである。八木誠一『イエスの宗教』(岩波書店)p10~11)