風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「ラザロの復活」とソーニャ− ドストエフスキー『罪と罰』26

罪と罰』の中で、ソーニャがラザロの復活を記した聖書個所を朗読する場面があって、それについて書こうと思っていたのだが、最近夫が買ってきた本の中にその場面について言及しているところがあったので最初に引用させて頂こうと思う。

 ソーニャは、現実の世界では決して奇跡が起きないことを知っています。なにしろ彼女は、極貧にあえぐ娼婦なのです。
 しかし、その自覚は彼女の信仰を少しも弱めることにはならず、むしろ強めています。これは、矛盾そのものです。そして彼女は、その矛盾をさらけ出すことを恐れているのです。
 彼女のそうした矛盾を知っているラスコーリニコフは、意地悪く、「で、神様は何をしてくださるのかね?」と尋ねます。
 ソーニャは、下を向いたまま、「何でもしてくださいます」と早口で答えます。「下を向いたまま」「早口で」という描写だけで、その場の状況がはっきりと想像できます。
 このときのソーニャの仕草は、これ以外のものではありえません。
 なぜなら、彼女の理性は、「もし神が存在するならば、信心深いものが極貧の売春婦になるようなことはありえないはずだ」と指摘しているからです。
 ソーニャ自身もそれを認めざるをえません。したがって、神を信じる行為がまったく矛盾したものであることを認めざるをえないのです。
 この認識は、本章の2で述べる『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの認識(もし神が存在するならば、子供たちがいわれのない苦しみに直面するはずはない)と同じものです。
 イヴァンはこの認識から「大審問官」に進んだのですが、ソーニャは同じ認識から「ラザロの復活」に進んだのです。

 

(略)

 

 これは明らかな矛盾であるあるわけで、その矛盾をどう考えたらよいのかは、私にとって長い間の疑問でした。
 矛盾は、それだけではありません。奇跡は、人間が求める最たるものですから、説得者が奇跡を起こせる能力があることを示せば、人々は一瞬のうちに説得されてしまいます。だからこそ、キリストは奇跡を行ったのでしょう。
 しかし、奇跡は現実の世界では起こらないのです。
 ソーニャが宝くじに当たって突然百万長者になるといったことは、決して起きません。またラザロのように、一度死んだ者が生き返ることもありません。もちろん、ソーニャは、そのことを十分すぎるほど承知しています。
 しかし、それにもかかわらず、現実の世界において奇跡は起こるのです。ただし、奇跡は、死者がよみがえったり、水が葡萄酒になったりするというような物理的現象として起こるのではなく、人間の心の中で起こるのです。
 『罪と罰』で言えば、ソーニャの朗読を聞いたラスコーリニコフの心の中で起こったのです。『カラマーゾフの兄弟』においては、夢を見たアリョーシャの心の中で起こりました。
 そして、それを引き起こすきっかけとなったのが、聖書の中にある奇跡物語、つまりラザロの復活であり、カナの婚礼であったのです。(野口悠紀雄=著『だから古典は面白い』より)

ここで野口悠紀雄氏が書いておられる「奇跡は…人間の心の中で起こる」という結論のような言葉は、キリスト教会の中ではおそらく受け入れられない言葉だろうと思う。私たちは、実際にラザロは死者の中から復活したのだと信じているのです、と。

それにもかかわらず、この野口氏の書かれたことは、そのまますっと通り過ぎることのできないものを含んでいると思わされる。

そう、「奇跡は現実の世界では起こらない」のであり、「しかし、それにもかかわらず、現実の世界において奇跡は起こる」からだ。

 

 

さて、私はこの場面を以下のように読んだ。

この場面ほどソーニャをイエスとして描いていると思える場面はないだろう、と。

 ラスコーリニコフは彼女のほうをふり返り、胸をおどらせて彼女を見やった。そうだ、やはりそうだった! 彼女はもう本当の、ほんものの熱病にかかったように、全身をわなわなとふるわせている。彼の予期したとおりだった。彼女はいましも、あのもっとも偉大な、かつて例のない奇蹟についての言葉にさしかかろうとして、偉大な勝利感にとらえられていた。声は金属音のように甲高くなり、勝利と喜びがその声に躍動して、声を力づけた。(岩波文庫罪と罰 中』p287~288)

赤字表記は、ミルトスによる)

 

ここでは、ラスコーリニコフがソーニャのことを「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」だと考えていたということが言われているのだが、ラスコーリニコフの捉えがそのままドストエフスキーの考えであるわけがないのだ。

 

「主よ、もう臭くなっております。墓に入って四日ですから」」
 彼女は、四日という言葉にことさら力をこめた。
 「イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。そこで、死者の横たわっていた洞穴から石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わが願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわが願いを聞いてくださることを、よく知っております。しかし、こう申しましたのは、ここに立っている人びとに、あなたが私をつかわされたことを、信じさせんためであります」。こう言われてから、大声で「ラザロよ、出なさい」と呼ばわれた。すると、死者は出てきた。
 (彼女は自分が目のあたり見たかのように、身体をふるわせ、悪寒を感じながら、感激にあふれた大声で読みあげた)
(略)
 するとマリヤのところにきて、イエスのなさったことを見たユダヤ人たちの多くは、イエスを信じた」
 それ以上、彼女は読まなかった。いや、読むことができなかった。本を閉じて、すばやく椅子から立ちあがった。
 「ラザロの復活のところはこれだけです」彼女はきれぎれに、きびしい調子でささやき、わきのほうを向いて立ったまま、じっと動かなかった。何か気はずかしくて、彼のほうに目をあげるのがためらわれた。(『罪と罰 中』p288~289)

「四日」というのは、確実に死んだということを表している。そしてそれは「復活した」ということを確実なものにしているのである。それはつまり、ラザロを復活させたということが、「もっとも偉大な、かつて例のない奇蹟」であったということを表しているのである。

 

ここで引用した中で大事なのが、「彼女は自分が目のあたり見たかのように」「何か気はずかしくて」である。

そして、ここを読むと、野口氏が取り上げていた、「ソーニャは、下を向いたまま、「何でもしてくださいます」と早口で答え」たのはどうしてだったかが分かると思う。

それが、ソーニャが朗読した聖書の中に記されているのである。

すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。(ヨハネによる福音書11:41,42 口語訳)

 

 

野口氏が引用した場面は、岩波文庫では以下のようになっている。少し前から抜粋引用する。

 「じゃ、そのかわりに神さまは何をしてくださるんだい?」彼はさらに問いつめた。
 ソーニャは返事に窮したように、長いこと黙っていた。彼女の弱々しい胸は、興奮のためはげしく波だっていた。
 「言わないで! 聞かないでください! あなたは、その資格のない人です!・・・・・」きびしい怒りの目で彼を見つめながら、だしぬけに彼女が叫んだ。
 『やはりそうだ! やはりそうだ!』彼は心のなかでしつこくくりかえした。
 「なんでもしてくださいます!」彼女は、また目を伏せて、早口にささやいた。(岩波文庫罪と罰 中』p280)

 

ラスコーリニコフが心の中で「やはりそうだ!」と思っているのは、ソーニャがユロージヴァヤだと確信しているということを表しているということである。

 

しかしこの場面でのソーニャの応答には、野口氏が言うような「矛盾をさらけ出すことへの恐れ」というより、父なる神を冒涜する者への怒りが込められていると捉えられる。その答えが朗読した聖書の中に表されていると思うのである。

そうすると、「彼女は自分が目のあたり見たかのように」「何か気はずかしくて」、これらの言葉が全て矛盾なく一つに繋がっていくことが分かると思う。

ドストエフスキーが、ソーニャをキリスト・イエスとして描いていると考えるなら。

 

 

最後に、野口悠紀雄氏がドストエフスキー作品の中で言及しておられる聖書の二つの奇跡物語は非常に重要な二つであることを言っておきたいと思う。

 

ラザロの復活は、『罪と罰』の中でも記されているように、「もっとも偉大な、かつて例のない奇蹟」である。死人を復活させた奇蹟だからだ。

そしてこの後、イエスは十字架へと向かわれるのである。

 

そして、「カナの婚礼」の奇蹟は、イエスが最初に行った喜びと祝福に満ちた奇蹟なのだ。

 

ドストエフスキーは、『罪と罰』の中にラザロの復活を収め、最後の作品である『カラマーゾフの兄弟』の中に喜ばしい婚礼での奇蹟物語を収めたのだ。私はこのことを野口氏から教えられなければ気づかなかった。

 

 

 イエスは、水をぶどう酒に変えられました。水は清めのための水でした。清めは、旧約を象徴する行為です。その水がぶどう酒に変わったのです。
 新約でぶどう酒と言えば、聖晩餐のぶどう酒です。ぶどう酒はキリストの血を表すものです。キリストの血はわたしたちの罪を贖い、清めます。神の恵みによって新しく生きることの象徴、しるしです。水がぶどう酒に変わったのは、旧約から新約へと変わった、キリストによって救いが成就し、古い契約(旧約)から新しい契約(新約)に変わったしるしです。https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2019/03/03/193721

 

 

野口悠紀雄氏は、パイーシイ神父が朗読する「カナの婚礼」を聞きながら夢を見た後、アリョーシャは新しく生まれ変わった、と言っておられるのだ。

 

 

 

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矢口以文『詩集 イエス』より