ソーニャも急に椅子から立ちあがり、おびえた目で彼を見つめた。彼女は何か言うことがあり、何かたずねることがあるような気がしたが、それがなかなか口に出なかった。それに、どういうふうに切りだしたものか、わからなかった。
「どうして・・・・・どうしてまた、こんな雨のなかをお出かけになりますの?」
「なに、アメリカまでいこうという人間が、雨をこわがっていたのではね、へ、へ!じゃ、ごきげんよう、ソフィヤ・セミョーノヴナ! いつまでも、いつまでも元気に暮らしてください、あなたはほかの人の役に立つ人なんだから。それから・・・・・ラズミーヒン君に、私からよろしくと伝えてください。そう、そのとおり伝えてくださればけっこう、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフがよろしく申しましたと。ぜひ忘れないでくださいよ」
彼は、驚きに呆然として、また何か漠とした重苦しい疑惑にとらえられているソーニャを残して、外へ出た。(岩波文庫『罪と罰 下』)
ソーニャが、スヴィドリガイロフが死のうとしているのを分からないまま、見送る場面である。
ソーニャはカチェリーナに対してもラスコーリニコフに対しても深い理解を持ち得ているが、それはソーニャが目の前の人間に向き合うところから得られる洞察の深さによると思われる。
スヴィドリガイロフに対するソーニャの姿勢も他に対するのと変わらない。ソーニャは、何か言うことがあり、何かたずねることがあるような気がしたが、なかなか口に出せないまま、しかしスヴィドリガイロフから目を逸らそうとはしない。
キリストがユダを送り出す場面を思い浮かべる。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。(ヨハネによる福音書13:27 新共同訳)
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。(マタイによる福音書26:24 新共同訳)
キリストはユダが裏切ることを知っていた。おそらく死ぬことも知っていたのではないかと思う。というより、イエスを裏切って生き続けていくことは困難だということを分かっておられたのだと思うのだ。だから、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われたのだ。
ソーニャは、この場面で、スヴィドリガイロフが死ぬために出て行くことを知らない。しかし、ソーニャのこの気遣わしげな様子は、ユダに対するキリストの愛を反映させたものとして描いていると考えられる。
これらの言葉を考えるに当たって、一応愛の問題を正義の問題と区別することが必要であろう。(略)正義は社会の問題なのである。愛の対象は、今、ここで私の目の前にいる、一人の具体的な人間なのである。(八木誠一=著『キリストとイエス』p42)
イエスは所属するグループや信条で人を区別しない。人の存在が何によって規定されているか、これが決定的なのだ。愛にとって人の資格や価値や意味は問題ではない。(p50)