あなたにあげるのはあのひとにあげるのと同じことなんです。それにあなたは、リッペヴェフゼリ夫人に借金を払うと約束された、私は聞きましたよ。どうして、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたはそんなふうに考えもなく、そんな約束だの義務だのを背負いこまれるのです?あのドイツ女に借金があったのはカチェリーナ・イワーノヴナで、あなたじゃない。あなたはあんなドイツ女なんぞ、知ったことじゃなかったんです。そんなふうじゃ、世の中を渡っていけませんよ。(岩波文庫『罪と罰 下』p306~307)
ここは、スヴィドリガイロフがソーニャにお金をあげて説教をする場面である。
ソーニャをキリストだと思って読むと、この場面は本当に可笑しい。「クフっ」と笑ってしまうような場面だ。
けれど聖書でも、イエスが「私は十字架にかけられて殺されるのだ」という話をした後、ペテロがイエスを諫めるという場面が記されているから、全く可笑しなこととも言えないのだが。
この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。(マタイによる福音書16:21~23)
ソーニャは、スヴィドリガイロフに「サタンよ、引きさがれ」とは言っていない。ただ項垂れてスヴィドリガイロフの言うことを聞いている印象。
スヴィドリガイロフがソーニャに説教するこの場面、ほんとうに好き。
しかし、借金を肩代わりするというソーニャの行為は、キリストの行為そのものだと言える。その行為は、人から見れば常識外れで「そんなふうじゃ、世の中を渡っていけませんよ」と言われるような行為なのである。
スヴィドリガイロフは一貫してソーニャを「ソフィヤ・セミョーノヴナ」と呼んでいるが、「あなたはそんなふうに考えもなく」という場面で、「ソフィヤ」と呼びかけているのにも笑える。