風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

スヴィドリガイロフとユダ - ドストエフスキー『罪と罰』15

ところで、ここに五分利付公債で三千ルーブリあります。この金はあなたが、ご自分の分として納めてください。(略)この金はあなたにとって必要なはずです。なぜって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、これまでのような暮らしをつづけるのは、見苦しいことですし、そんな必要ももう全然ないのですから」

(略)

「あなたに、あなたに差しあげるんですよ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、だから、どうぞ何も言わずに。それに私はひまもないので。必要になるときが来ますよ。(岩波文庫罪と罰 下』p305~306)

この部分は、死を決意したスヴィドリガイロフが、残されたカチェリーナの子ども達のために手続きを終え、ソーニャの元にやって来た場面である。

あのときあなたが、あのひとに勇気を出して自首するようにさとされたのはいいことでした。そうなれば、ずっと有利になります。で、結局、ウラジミール街道ということになって、あのひとが出かけたら、あなたもついていかれるでしょう? そうですね? そうでしたね? で、もしそうなら、金の必要も出てくるわけです。あのひとのために必要になるんですよ、わかりますか? あなたにあげるのは、あのひとにあげるのと同じことなんです。(p306)

 

スヴィドリガイロフは、ユダのキリストへの行為を反転させた人物として描かれている。

 

しかし最期は同じ自殺なのだ。

 

ここにも、ドストエフスキーの言おうとしたことが明らかに示されていると言える。

 

 

そもそもスヴィドリガイロフは、借金を抱えて監獄に入っていたのを見受けされてマルファ・ペトローヴナと結婚したのだった。つまりマルファによって買い取られた身であったということだ。

私たちの間にはこんな口約束ができあがった。第一に、私はけっしてマルファ・ペトローヴナを捨てず、永久に彼女の夫としてとどまること。第二に、彼女の許可なしには、家をあけてどこへも出かけないこと。第三に、きまった愛人はけっしてつくらぬこと。第四に、その代償としてマルファ・ペトローヴナは、私がときたま小間使いに手を出すことを許すが、その場合でもかならず彼女の内諾を得ること。第五に、ぜったい私たちと同じ身分の女性を愛さないこと。第六に、もし万一、真剣なはげしい情熱に私がとらえられた場合は、かならずマルファ・ペトローヴナにうちあけること。もっともこの最後の点に関しては、マルファは最初からたかをくくっていたようです。あれは利口な女でしたから、当然私のことも、真剣に女を愛したりできないただの好色漢、遊び人としか見れなかったわけです。(岩波文庫罪と罰 下』p248)

スヴィドリガイロフは、愛のない牢獄から、ドーニャによって救い出されることを願っていたのだ。

 

「とんでもない。それじゃ、この世のなかで人間が人間に対してなしうるのは悪だけだと言うことになりますよ。それどころじゃない。くだらない世間のしきたりにしばられて、ほんの小さな善をする権利ももてないということになる。ばかげたことです。じゃ、もし私が死んで、遺言によってそれだけの金を妹さんに残したとしたら、それでも妹さんは受けとるのを拒否されますか?」(岩波文庫罪と罰 中』p211)

 

しかし・・。

 

そして柩のなかには、花に埋まるようにして、絹レースの純白の服を身につけ、大理石を彫ったような両手をしっかりと胸に組んで、ひとりの少女が横たわっていた。しかし、少女の乱れた髪、明るいブロンドの髪は、ぐっしょりと水にぬれていた。ばらの花冠が少女の頭を飾っていた。すでに硬直したいかつい横顔も、やはり大理石で彫りあげられたようだったが、少女の青白い唇に浮かんだ微笑には、どこか子どもらしくない、かぎりもない悲しみと、深い哀願とがあふれていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。聖像も、燈明も、この柩のかたわらにはなく、祈禱の声も聞こえなかった。少女は、川に身を投げた自殺者であった。やっと十四歳になったばかりだというのに、この少女の心はすでに破れ、傷つき、みずからに手をくだしたのだった。陵辱がこの心をけがした。陵辱が、このおさな子の意識を恐怖と驚きにおののかせ、天使のように清純なその魂をいわれのない羞恥心で満たし、だれに聞かれることもない、無惨にはずかしめられた絶望の最後の叫びを彼女からもぎとったのである。(岩波文庫罪と罰 下』p320~321)

これは、死ぬ間際にスヴィドリガイロフが見た夢である。この少女を陵辱したのはスヴィドリガイロフであったろう。

 

「自殺者」について、訳注には次のように記されている。

三二一 川に身を投げた自殺者 正教教会では自殺者に対しては正式の葬儀を行わず、教会の墓地にも葬らせないことにしていた。(岩波文庫罪と罰 下』「訳注」より)

スヴィドリガイロフは、自分が陵辱した少女と同じ仕方で、自分に始末をつけたと言える。

 

しかしキリストを売り渡したユダと決定的に違っているのは、死の直前に、ソーニャを解放するために行動したという点である。

p306の「あなたにあげるのは、あのひとにあげるのと同じことなんです」という言葉からは聖書の次の言葉が想起される。

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイによる福音書25:31~40)

 

スヴィドリガイロフの言葉は、この聖書の言葉を逆転させた言葉だと言える。「キリストにしたことは、最も小さい者の一人にしたことに等しい」、と。

 

ここに、ドストエフスキーの言おうとしたことが表されている。既成の宗教が規定しているものを踏み越えて本物の神を、救いを、赦しを得ようとしたドストエフスキー自身が、表されている。