風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

重荷となっている人々が錨となってつなぎ止めている − ドストエフスキー『罪と罰』31

 「だって、みんながあなたひとりの肩にかかってきたじゃありませんか。なるほど、以前にも、みながあなたにおぶさっていた。(岩波文庫罪と罰 中』p266)

 

『ちがう、今日まで彼女を運河から引きとめてきたのは、罪の意識なんだ。それと、あのひとたちだ、あの・・・・・そして、今日まで彼女が発狂しないでこられたのは・・・・・(『罪と罰 中』p279)

赤字表記は、管理人ミルトスによる)

 

「あのひとたち」「あの」には作者ドストエフスキーによる傍点が付されているということは、ドストエフスキー『罪と罰』29 でも書いた。

ここに先立つp266のソーニャに向かって語られたラスコーリニコフの言葉「みんながあなたひとりの肩にかかってきたじゃありませんか」「みんな」「あのひとたち」と同じ、カチェーリーナとその連れ子ポーレチカ、リードチカ、コーリャのことであろう。

 

つまり、ソーニャを自殺や発狂から引き留めているのはカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、コーリャであり、ソーニャにおぶさっているのもカチェリーナとポーレチカ、リードチカ、コーリャだということだ。

 

この構図は、『闇の守り人』で書いた「重荷となっていた存在が錘(おもり)となって、その人を支えている」ということと同じだと言える。

 

ここでは、重荷となっている人々が錨(いかり)となってソーニャをつなぎ止めている、そうラスコーリニコフは理解したのだ。

 

そしてこのことは、八木誠一『キリストとイエス』と − ドストエフスキー『罪と罰』で引用した「私は他者とのかかわりの中で自己自身であるべく、置かれた存在なのである」にも繋がっていくことのように思われる。

 

 

 

 

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