風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ソーニャについてのラスコーリニコフの考察 − ドストエフスキー『罪と罰』29

 しかし、それにしても、こうした性格をもち、まがりなりにも教育を受けているソーニャが、けっしてこのままの状態にとどまっていられないだろうことも、彼には明らかだった。やはり彼は、ひとつの疑問をふっきれない ーー なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか? もちろん、彼は、いまの社会では、ソーニャの境遇が、不幸なことに、けっして特殊な、例外的な現象とは言えぬまでも、やはり偶然的な現象にちがいないことを理解していた。しかし、ほかでもないこの偶然性、つまり彼女が受けたわずかばかりの教育と、これまでの彼女の全生活こそ、このいまわしい道に一歩を踏みだしたとたん、かえって彼女を破滅させかねないのではないだろうか。では、彼女の支えとなってきたものは何だろう? まさか淫蕩ではあるまい。この汚辱は、たんに機械的に彼女にふれただけであることが、はっきりしている。真の意味での淫蕩は、まだひとしずくも彼女の心にはしみ通っていない。彼はそのことを目にしていた。彼女は彼の前にうつつに立っているのだ・・・・・。

 『彼女には三つの道がある』と彼は考えた。『運河に身投げするか、精神病院にはいるか、でなければ・・・・・でなければ、いっそ淫蕩に身をゆだねて、理性を麻痺させ、心を石にかえてしまうことだ』最後の想像は、彼にとってもっともいまわしいものだった。しかし彼はすでに懐疑派だった。それに若くて、抽象的で、したがって残酷だった。となれば最後の道、つまり淫蕩がもっともありそうなことだと信じないわけにはいかなかった。

 『だが、はたしてそれが本当だろうか』彼は心のなかで叫んだ。『はたしてこの女も、いまだに精神の純潔を保っているこの少女も、最後にはやはりあのけがらわしい、悪臭のただよう穴のなかへ、それと知りながら引きこまれて行くのだろうか? いや、その堕落はもうはじまっているのではないだろうか、そして、彼女がいままでもちこたえてこられたのは、その悪徳が彼女にはもうさしていまわしいこととも思えない、それだけの理由によるのではなかろうか? いや、うそだ、うそだ、そんなことはありえない!』彼は、さっきソーニャが叫んだのと同じように絶叫した。『ちがう、今日まで彼女を運河から引きとめてきたのは、罪の意識なんだ。それと、あのひとたちだ、あの・・・・・そして、今日まで彼女が発狂しないでこられたのは・・・・・だが、待てよ、彼女はまだ発狂していないなんて、だれが言ったんだ? はたして彼女の判断力は健全だろうか?(略)だが、こうしたことはすべて発狂の徴候ではないだろうか?』

 彼は執拗にこの考えにこだわった。ほかのどんな結論よりも、彼にはこの結論が気に入ったほどだった。彼はひときわ目をこらして彼女を凝視しはじめた。(岩波文庫罪と罰 中』p277~279)

赤字表記は、管理人ミルトスによる)

 

考察というより妄想が入っているようにも思えるが、引用中の「あのひとたち」「あの」には作者ドストエフスキーによる傍点が付されている。この「あのひとたち」は言うまでもなく継母カチェリーナとその連れ子達、ポーレチカ、リードチカ、コーリャのことだろう。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 

あまりに殺風景なので、過去の庭の写真を載せておこう。

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アリストロメリアの原種とオオタニワタリ