風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『闇の守り人』


「おれは夢をみながら、考えてた。おれが、たどってきた道の、どこかで、べつの道をえらんでいたら、もっとよい人生が、あったのだろうか、と」
バルサは、はっとしてジグロをみた。ジグロの目が、わらっていた。
「こたえはな、・・もう一度、少年の日にもどって、人生をやりなおしていい、といわれても、きっと、おれは、おなじ道をたどるだろうってことだった。
おれは、これしかえらべないっていう道を、えらんできたのさ。ー だから、後悔はない」


私の両親は私が生まれて半年で離婚をした。以来母は私を一人で育ててくれた。
いつの頃からか私は、「自分が生まれていなければ、母は人生をやり直すことができたかもしれない」と考えるようになっていた。そしてそれは、いつしか私の罪意識になっていった。「私の存在そのものが、誰かの人生を損なう」ということがあるのだ、と。キリスト教の学者や、牧師が聞けば、そんな罪理解は間違っていると言うかも知れない。けれど、人は神の御心を完全に理解することは出来ず、生きている自分の世界と理解の限界を超えては理解することができないと思うので、今のところ私は、こんな風にしか自分の罪というものを捉えることが出来ないでいる。けれど、『闇の守り人』を読んで、「重荷となっていた存在が錘となって、その人を支えている」ということがあるのかも知れない、と思ったのだった。

みぞれがふる寒い夜に、商家の軒下の泥のなかで、こごえながらねむったおさない日、自分をしっかりとつつみこむようにだきしめてくれていた、ジグロのにおいと、ぬくもりとが、肌によみがえってきた。
かなしみをかかえながらー 苦しみに、うめきながら ージグロは、それでも、ずっとバルサをかかえ、だきしめて、生きてきたのだ・・。


きれいに皮をぬぎおわったとき、水蛇から、ひとつの思いがつたわってきた。子を思いやる親のような、あたたかい思いだった。(上橋菜穂子=作『闇の守り人』(偕成社)より)

『闇の守り人』について

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