風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

もっとも近しい隣人ー妻

今井恵子
寒あおぞらかぎるもの見ずたかひかる米軍制空権のとうめい
大井学『サンクチュアリ』(2016年・角川書店
昨日、6月23日は沖縄慰霊の日だった。(中略)
この歌はとくに沖縄を題材にしているのではないが、現代日本において、見えないものを見る必要を考えさせる。報道のうしろには、生々しく繰り広げられる現実があり、目に見えない力がそれを統括している。見えない力は、推測し想像し考え続けることによって、そこに立ち現れるが、それだけでは時間の流れに押し流されてしまう。それはさらに、表現する主体をもたなければならない。『サンクチュアリ』は、その表現主体が明確で、現代日本の状況への批評性がとても高い。あらためて表現と勇気について考えさせられた。(「一首鑑賞 日々のクオリア」より抜粋引用)

「自分のことばかり考えて生きて来た人間は、死ぬに死ねないだろう」ーこれは、ある年老いた政治家の(成りすましかも知れないが)ツブヤキを見た私の感想である。

ミュージシャンの大瀧詠一氏の亡くなる直前の言葉は、夫人への「ママありがとう」だったそうである。ウィキペディアにそう書いてあった。

ウルビーノ博士のフェルミーナ・ダーサへの最後の言葉は、「わたしがお前をどれほど愛していたか、神様だけがご存知だ」である。これは、ガルシア・マルケス自身の妻への言葉だ。何故なら、この物語コレラの時代の愛「むろんメルセーデスのために」という言葉が掲げられ、マルケス夫人に献げられたものだからだ。この言葉は私の胸を打つ。罪の世界で、愛しきれない中で、愛そうとしてきた者の言葉だからだ。

親や子や妻など、身内の人間を愛したからとてなんになる、という考えも一方にはある。身内とは、自分の内にいる者だからだ。

しかし、これら身内の中でも、妻だけは別だろうと思う。


聖書に出てくる人物の中で、ダビデについてだけは、「嫌い」ということで私と娘の見解が一致する。部下の妻を自分のものにするために、戦況の激しい前線に部下を送って殺させるというやり方があまりにも卑劣極まりないからだが・・。このダビデの子孫に救い主が生まれたということで世の中ではえらくもてはやされている、というのがまた気にくわない。
しかし、イエスもこう言っている、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が詩篇の中で言っている、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」(ルカ福音書20:41~44)

ダビデが高くあげられるのは、どんなに酷い罪を犯しても主に向かって自らの罪を悔い、主に信頼して歩んだためだと考えられるが、娘はそこでも納得出来ないでいたようだ。娘は、「自分はダビデほど主に信頼していないと思うけれど、ダビデほど酷い罪は犯していない」と言う。けれど最近、教会の青年会で読んだテキスト吉岡康子=著『旧約聖書の人間模様』(日本キリスト教団出版局)で、この部分を納得することができたようだ。以下、引用。

 しかしこの一部始終をひややかに見下していた人がいました。ほかならぬダビデの妻ミカルです。ダビデは彼女を取り戻していたのです。ミカルは前夫に未練はなかったようですが、晴れて王となった夫ダビデと喜びを共にする愛情もなくなっていたようです。喜びに興奮しながら町中のすべての人に菓子を振る舞い、家の者を祝福しようとごきげんで帰ってきた夫に、皮肉たっぷりの言葉を投げつけます。それに対して、ダビデも負けずに冷たいセリフをぶつけるのです。
 かつて命懸けで愛し合ったふたりが、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことができなくなった悲しい結末が記されています。複雑な親子・夫婦の関係がふたりの絆をねじれさせたのかもしれません。もっと深刻なのは、ミカルにとっては神の箱などどうでもよかったということです。つまり主を信じる心と祈りと感謝がなかったから、ダビデと共に我を忘れて主を賛美する喜びもおきなかったのです。
 そしてそんな妻の葛藤と闇に心と思いを寄せることができなかったダビデにも、この時すでにもっとも近い隣人を見失うことによって、主を見失う危機が近づいていたのです。実際このあとのダビデの人生は「バト・シェバ強奪事件」(11章)、そして悲惨なアムノンとタマルの事件(13章)に端を発したアブサロムのクーデター(15~18章)と、家族をめぐる苦悩の日々が続きます。(『旧約聖書の人間模様』「倒れてもなお(サムエル記下12・1~17)」より抜粋引用)

娘は独身なので、「もっとも近い隣人」として夫や妻を想定しているわけではない、と思う。けれど、身の周りにいる隣人を大事にすることができない事態というのは体験的に理解できるということだろう。そしてそのような日常の小さな出来事の中に、隣人を大切に出来ない罪というものが自分の中にもあるということを理解したのだ、と思う。

ダビデが死に際して最期に言葉を遺したのは、息子ソロモンに対してであった。(列王記上2章)


さて、話を元に戻そう。

聖書に記された創造の観点から見れば、妻というのは、他の身内とは違うだろうと思う。夫婦というのは父母を離れて、一体となった者達なのだ(創世記2:24)。しかしその後、罪に堕ちたが故に、妻は夫を惑わす者となり、夫は妻に罪をなすりつける者となった(創世記3:12)。そしてこのことが、夫婦という者の本質を表している。一体でありながら、そこには常に惑わす何かが入り込む隙があるのである。「もっとも近い隣人」、言い替えるなら、「もっとも近い他人」となったのだ。

この事を考えるなら、死に向かって行くときに為すべき事、言うべき事、言うべき相手が自ずと分かってくると思う。
良い歳をして、「死後の来世で仲間達に会えたらそんな贅沢はあるまいが、死んだら虚無でしかあるまい」等と自分の死のことばかり考えているようでは、上野で生まれたパンダの名前を「当てつけにセンセン、カクカク(尖々閣々)にしたらいい」等と言っているようでは、死ぬに死ねないだろう、ということになるのである。