風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

罪と悪(島弘之=著『小林秀雄 悪を許す神を赦せるか』から2)(ボンヘッファー論)

「悪を許す神を赦せるか」というタイトルを見て、「悪」とは何か?「罪」ではないのか?と考え、娘に「罪と悪の違いってどういうものだと思う?」と聞いてみた。すると娘は、「イメージでしかないけど」と前置きをして、「例えて言えば、ヒトラーは「悪」で、ボンヘッファーは「罪」っていう感じかな?」と応えてくれた。

私はその時点で、「悪は実際に行動に移したもの、罪は心の中で犯すもの」というような微妙な違いはあるかもしれないが、最終的に「悪」も「罪」へと包含されていくのではないかと考えていた。けれど、娘の言う「悪」と「罪」の分類は結構分かりやすいと思ったのだった。

 

聖書の中に悪についての言及がないわけではないと思う。むしろ「悪人」ということでなら、聖書を読む限り「悪を許す神」というイメージを持つことはないのではないだろうか。 

悪人は茨のようにすべて刈り取られる。手に取ろうとするな 触れる者は槍の鉄と木を満身に受ける。火がその場で彼らを焼き尽くすであろう。(サムエル記下23:6,7)

 

エゼキエル書には「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる」(18:23)と記されている。

しかし、その前後を見ると、「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」(18:21)、「彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(18:23)と記されていて、悪人がそのままで許されるとは言われていない。

さらに、18章24節では、「しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちゆえに彼は死ぬ」とまで言われている。

 

もう一箇所、エゼキエル書から引用しよう。

わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。(エゼキエル書3:18,19)

 

これは預言者エゼキエルに対して神が語られた言葉である。エゼキエルが預言者としての務めを果たさず悪人に対して警告しないなら、悪人が死ぬのは自分の罪のためだが、その死の責任はエゼキエルに問う、と言うのだ。

ここで面白いと思うのは、悪人が「悪」の道から離れて神に立ち帰らなかったら、その悪人は自分の「罪」のために死ぬ、と語られているところだ。

 

やはり聖書においては、すべての「悪」は「罪」へと包含されていくように思える。そして、悪を離れて神へと立ち帰らなければ許されることはないのだ、と思える。

だからこそ、キリストは十字架につかれたのである。

 

本をこちらに持ってきていないので定かではないが、ボンヘッファーは「人は、この世において、善か悪かを選べるのではなく、多くの悪の中からどれか一つを選ぶほかはない」というようなことを言ったのではなかっただろうか。

 

ボンヘッファーは暗殺計画には加わったが実際に人を殺したわけではない。だから娘の言うように、ボンヘッファーは「悪」ではなく「罪」に分類されると言えるように思う。

しかし、暗殺者集団に入って暗殺計画に加わったことによってボンヘッファーは罪の自覚から遠のいただろうと私は思う。

キリスト者はキリストに従って罪を負わなければならないとボンヘッファーは言ったのではなかったか。しかし私は、この考え自体が間違っていたと思う。私たち人間は、キリストに従って罪を負うのではない。私たち人間はそもそも罪を抱えて生まれてくるのだ。

 

キリストに従うなら、ボンヘッファーは何も行動するべきではなかったのだ。そうすれば、「人は、悪の中から一つを選ぶほかはない」等と自分の行動を正当化するための観念的な言葉を口にする必要はなく、罪を自分の罪として深く自覚し得たはずなのだから。

 

そういったあたりで、私はどうしてもボンヘッファーの行動を肯定することはできない。

けれど、ボンヘッファーが救いに入れられたかどうかは私のあずかり知るところではない。

キリスト教とは、死で終わるものではないからだ。