風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ファラオのように、サウルのように・・〈「あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば…」(サムエル記上13:13)〉


● 「*知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。しかし、知恵はこれをもつ者に生命を保たせる。これが知恵のすぐれた所である。」 「ピヨピヨひよこ日記」
 *神から賜る知恵のこと。
主である神様に罪を赦された人が、いつも神様に愛され、守られ、共にいて下さることを実感し続けることで、心に平安が与えられ、その結果として、生活の様々な局面で、正しい判断を仰ぎ、決断し、実行する能力が高まること。(抜粋引用)

「気をつけます」と言いさえすれば、それで本当に気をつけることになるのか?軽々しい決断と、人命について責任など負えない身でありながら安易に請け負う、それで本当に主の御心に聴いて判断したといえるのか、と問いただしたい思いにさせる行動を取る者が、現実の社会の中、私の身の周りにも居る。(関連過去記事→「白く」

しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。(出エジプト記7:3~6)

主に用いられようとする者は、完全な服従を求められる。そのためには自分に死ななければならない。
自分に死ぬとはどういうことか?自分の考えに従って事を成そうとすることを放棄するということである。

正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。
また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。(エゼキエル書33:13~16)

ファラオのように、サウルのように暴走し始めた人間を止めることは、誰にも出来ない。
自ら心を翻して神に立ち返るのでなければ、滅びへと突き進むことになる。

預言者や王が愚かであれば、民は惑う。

主はモーセに言われた。「明朝早く起き、ファラオの前に立って、彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすこともできたのだ。しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。あなたはいまだに、わたしの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしない。…。ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。(出エジプト記9:13~21)
長老制の教会において、王の務めを担うのは、長老である。

イスラエルの初代王サウルは、他国のように自分達も王が欲しいと言う民の願いを聞き入れられた神によって立てられたが、民の不興を買うことを恐れるあまり、主の命令と言葉にそむく(サムエル記上15:24)。主によって王位から退けられてもなお王位にしがみつき、新たに主によって油注がれたダビデを妬み、命を狙う。サウルはしだいに魂を崩壊させていく。

サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」(サムエル記13:13~14)
悔い改めて、神に立ち返らない者は自ら滅びの道を突き進む。サウルの最期は自死である。
しかし、ヤベシュ・ギレアドの住民はサウルと息子達の遺体を城壁から取りおろし火葬にして葬った(サムエル記上31章)

立ち帰れ、立ち帰れ、…。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。エゼキエル書33:11)

わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。(イザヤ書44:22)

ダニエルは王に答えた。「…。王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。(ダニエル書5:17~21)