風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「あいつ、本当に子どもだから」

その人は、「あいつ、本当に子どもだから」、と小さい声で、私の顔をちらっと見ながら呟いた。
問題を抱えてどうしたら良いものかと頭を抱えている人々の中にいて、他人事のように、自分は事の本質を見抜いているとでも言うように、嘲ったのだ。
私という人間は好きな短歌もきっちりと記憶できないというのに、こういったことは、覚えていたいとも思っていないのに、耳の奥に刻印されるのである。
主は、こういったことをお見逃しにはならない。主は、今、この人を打っておられる。

正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。
また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。(エゼキエル書33:13~16)

どんなに正しくとも、正しさだけでは祝福されない。神の正しさを脇に追いやるなら裁きを招く。「恵みの業」を行うことが大事なのだ。「最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙一13:13)と語られている通りである。
丁寧な言葉遣いをする者、物腰柔らかな対応をする者が人を大事にしているとは限らない。ユダは口づけをもってイエスを裏切るのだ(ルカ福音書22:47)
人の苦難や苦悩を聞いて「そんなのは大したことじゃない」と酷薄に言い放つ者がいる。主は、そのような者をお見逃しにはならない。主は、そのような者を必ず打たれる。悔い改めて立ち返るまで。