大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。(『カラマーゾフの兄弟 中』(新潮文庫)より)
昔、日常への回帰、凡庸への回帰というようなテーマで武者小路実篤と椎名麟三を比較して書いたものを何かで目にしたことがある。両者は別物だが、一見するとその単純な様相から同じように見えるというのである。
「僕がこんなことを言うのは、僕らがわるい人間になることを恐れるからです」アリョーシャはつづけた。「でも、なぜわるい人間になる必要があるでしょう、そうじゃありませんか、みなさん?僕たちは何よりもまず第一に、善良に、それから正直になって、さらにお互いにみんなのことを決して忘れないようにしましょう。(『カラマーゾフの兄弟 下』(新潮文庫)より)
『カラマーゾフの兄弟』のラストのアリョーシャのこんな演説を読むと、アリョーシャはまるで変わっていないのではないかと思わされる。しかし、この演説からは次のような聖書の言葉が思い起こされるのである。
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソ2:10)
そして、アリョーシャは「堅固な闘士」に変わっていた、と思わされる。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソの信徒への手紙6:11~18)
栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。(コリントの信徒への手紙二3:18)
愛を追い求めなさい。(コリントの信徒への手紙一14:1)
キリスト教徒になるとは、不断の運動態となるということである。
「アリゾナ大学の(略)教授らは、「人間は死を意識するとパフォーマンスがアップする」という研究成果を学術誌に発表している。それによれば、バスケットボールの試合前に「いずれは誰も死を迎えること」をほのめかされた選手は、そうでない選手よりもシュートの成功率が高まるという。」(抜粋)
— メロメロピー77 (@syodainekosuke) October 11, 2019
風が強くなってきた。いずれ死ぬから今でも良いかもしれないが・・。生きるのも結構疲れるし・・。
— メロメロピー77 (@syodainekosuke) October 11, 2019