「カラマーゾフさん!」コーリャが叫んだ。「僕たちみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」
「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです」半ば笑いながら、半ば感激に包まれて、アリョーシャが答えた。
「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう!」コーリャの口からこんな叫びがほとばしった。(『カラマーゾフの兄弟』より)
子どもの頃から「死んだらどうなるのだろう」と考えていた。「私という者がいなくなるとはどういうことか」、と。
ある時、教会の中で、子どもの頃からそんなことを考えていたと話すと、クリスチャンホームで生まれ育った年配の教会員の方が、「だけど自分たちは永遠の命へと入れられるんだから」と言われたのだった。私は、「○○さん、考えても見て下さい。私が子どもの頃はキリスト教の話をしてくれるような人は周りに一人もいなかったんですよ」と言ったのだった。この方は、生まれる前からキリスト教の中にいて素直に信じてこられたのだと思う。
私自身もキリスト教の中に入って、「私たちは死で終わるのではなくて永遠の命に入れられる」のだと聞かされてきたことはそれなりに良かったのかも知れないと思うのだが、今となっては、「永遠の命」とか「復活」とか、そんなものはどうでもいいと思えるのだ。不思議なことに・・。
私の母は、洗礼も受けずに亡くなった。何度か救急車で運ばれて、今、病床洗礼を受けさせようと思えば受けさせることが出来る、夫は牧師なのだから、と考えないこともなかったが、そうはしなかった。私の無意識が、「それよりも、実質的に母にどう関わるかの方が大事だ」と、そうさせなかったように思う。私はそのことを今でも全く悔いてはいない。
聖書の中には様々な事が言われているが、中に、イエスのこんな言葉もある。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイによる福音書10:42)
母の私への最期の言葉は「ありがとうね」だった。前日に施設を訪問した帰り際の言葉だ。「(来てくれて)ありがとう」だったろう。
時に母のことを、生まれてきて働いて死ぬばかりで何の喜びがあったろう?と不憫に思える時もあるにはあるが、「きっと母は報いを受けている」と、不思議とそう思えるのである。
洗礼というのは、信じ切れない私たちに、神が「信じると言って良い」のだと与えて下さった一つの目に見える印なのだ。洗礼自体が私たちを救うわけではないのだと思う。
それと同じように、永遠の命に入れられるかどうかとか、復活するかどうかも考える必要はないのだ。
キリスト教徒に大事なのは、その人生においてキリストを追いかけて生きたかどうか、なのだ。
生きた、そのことの中に、すでに救いが与えられているのである。
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。(ヨハネの手紙一3:14)