風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

アロンとモーセ

主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。…。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。(出エジプト記4:14~16)

主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。(出エジプト記7:1~2)

モーセはあれほど神に向かって口答えが出来るというのに「自分は口が重い」だなんて良く言ったよね、そんだけ神に口答えできれば十分だよって思わず突っ込みを入れたくなるのだが、それに比して、「雄弁」だと言われているアロンはどうなのか?と思って、出エジプト記の記述を追ってみた。
「アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた」(16:34)と記されているように、出エジプト記の前半はずっと、モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った」(7:10)、また、主が命じられたように言った、あるいは、イスラエルの人々は「主がモーセとアロンに命じたとおりに行った」というように、「アロンは、主の命じられたとおりにした」ということが記されている。
アロンが語った言葉はないのだろうかと思えるほどなのだが、32章に至って、アロンが語った言葉が記される。以下、

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。(出エジプト記32:1~6)
口を開いて、自分の考えを語った途端、罪を犯すことになったのだ。

牧師である夫は、説教にオリジナルはない、と言う。
現代は著作権というものがあって、説教集などの言葉をそのまま使ってブログなどに載せると問題が生じるかもしれない。しかし、説教というのは、そもそも神から聴いた言葉を語るものであって、自分の考えを語るものではない。聖書というもの自体が語り継ぎ、語り継ぎしてきたものの総体と言えよう。牧師に限らず、私たちキリスト教徒は聴かされて信じた言葉を語るのである。

どうしてアロンはこんなことをしてしまったのかと聖書を読む側は思うかもしれないが、渦中に立つと、事の重大さに気づかないということはいくらでも起こり得る。
アロンはおそらくこういったことで民を宥めようとしたのだろう。しかし、それが民に罪を犯させ、自分の罪ともなった。良かれと思ってやったことが、結果的に民を迷わせることになる。アロンは人殺しをしたわけではない。しかし、偶像礼拝によって、民を神から遠ざけるということは、真の命を失わせるということなのである。
ここでモーセが事の顚末を問いただすと、アロンは「どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです」(32:22)と言い訳をしている。罪を他へと転嫁しているのである。私たちは自分の罪を認めることは出来ないのだなぁと、ここでも思わされる。
しかし、このことの故に、アロンは約束の地に入ることなく生涯を閉じることになる。

興味深いのは、イスラエルの初代王サウルが最初に罪を犯した状況と似ているということだ。
サウルは苦境に立った戦いの最中に、サムエルがなかなか来ないので、自分の分を超えて焼き尽くす献げ物をささげる(サムエル記上13章)。これは、モーセが神の元から帰らないので、不安になった民を宥めるためにアロンが取った行動と等しいといえるだろう。どちらも、「神が見えない」という状況で罪を犯すに至っている。

神が見えない、あるいは神を脇へと押しやって、分を超えて、自分の考えが正しいと主張し始める時、罪が頭をもたげる。