風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

《主》ー「わたしはある(いる)」という方

 「あなたは、いったいどなたです?」とシャスタはたずねました。
 「わたしは、わたしだ。」その声は、たいそう深く低い声でいったので、地面がふるえました。そしてつぎに、「わたしだよ。」とすんだ明るい大声でくりかえしました。そしてさらに、三度めに、「わたしさ。」と、ほとんどききとりにくいほどやわらかく、しかも木の葉をさらさらとならして、まわりじゅうからきこえてくるようにささやくのでした。
 シャスタは、もうその声が、じぶんを食べてしまうようなものの声でも、ゆうれいの声でもないと知って、安心しました。けれども、いままでとちがった、これまで知らなかったおののきが、全身につたわりました。しかも、なにかうれしい気もちでした。
           (C.S.ルイス=作、瀬田貞二=訳『馬と少年』(岩波少年文庫)より)


ナルニア国物語の第五巻『馬と少年』のこの部分を読んだ時、三位一体の神をこれほど美しい言葉であらわした文章が他にあるだろうか、と思った。

そして、出エジプト記で、モーセに現れた神を思い浮かべた。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。(出エジプト記3:14~15)

今年新しい訳で出される共同訳聖書は、ここの部分の「わたしはある」を「わたしはいる」とするそうだ。日本語の文語的な訳から口語的な訳に変わるのかなとも思えるが、原語からそういう訳を選択したのかもしれない。


エスは彼らに言われた。「…。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。(略)
わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。(ヨハネによる福音書8:23~25,29)

「わたしはある(いる)」という方を、《主》を、教会の中に、私たちの人生に取り戻さなくてはならない!