ファラオのように、サウルのように暴走し始めた人間を止めることは、誰にも出来ない。
しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。(出エジプト記9:12)
ファラオの心をかたくなにされたのは、主だという。これはどういうことか?
モーセにとっては、自分の力で民をエジプトから導き出すのではないということを覚えるために、である。民をエジプトから導き出すのは自分ではなく、主であるということを。
かつてイスラエルの民を思ってエジプト人を殺してしまったモーセにとって、このことを心に刻むことは決定的に必要であった。神への徹底的な服従を学ぶということである。
神に服従するためには自分に死ななくてはならない。モーセが神の命を受けとめ神の杖を執った後に、神がモーセを殺そうとされたことが記されている。
途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(出エジプト記4:24~26)
主に用いられようとする者は、絶対の服従を求められる。そのためには自分に死ななければならない。
自分に死ぬとはどういうことか?全ての事を、自分の力によって成そうとすることを放棄するということである。
モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。(出エジプト記4:1~4)
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。(4:10~14)
主はモーセに言われた。「エジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう。あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と。」(4:21~23)