風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

王ソロモンの罪

「王ソロモンの執り成しの祈りで、「さすが!神に知恵を求めたソロモンだけある!」と書いたのだが、列王記をずっと読んできて、娘と、「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった(列王記上5:9)」はずなのに、どうしたソロモン!と言い合ったのだった。

 

ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。
当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた。
ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた。(列王記上3:1〜3)

彼が住居とした建物は、この広間の後方の別の庭にあり、これと同じ造りであった。またソロモンは妻に迎えたファラオの娘のために、この広間と同じ建物を造った。(列王記上7:8)

 

ここまでは、まだ許されている気がする。ファラオの娘を王妃として迎えてエジプト王の婿となっても。

しかし、・・

 

ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。

彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。(列王記上11:1,3〜8)

 

ソロモンは先祖と共に眠りにつき、父ダビデの町に葬られ、その子レハブアムがソロモンに代わって王となった。(列王記上11:43)

 

レハブアムの母は名をナアマと言い、アンモン人であった。 (列王記上14:21)

 

レハブアムは先祖と共に眠りにつき、先祖と共にダビデの町に葬られた。その母は名をナアマと言い、アンモン人であった。その子アビヤムがレハブアムに代わって王となった。(列王記上14:31)

 

「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、」(3:23)と始まって「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」(3:38)と記されるルカによる福音書のイエス系図の中には、ソロモンもレハブアムも記されていない。ダビデもアダムも記されているのに。

これはどうしたことかと考えていた。

これは、神から知恵を与えられたソロモンは神に成り代わって自分自身が神になってしまったということではないかと思える。

こんなに多くの女を本当に愛することが出来るなんて神以外には出来ないことだろう!

それをしようとしたのだ、ソロモンは!そりゃあ、裁かれるわな、神様に。

 

 ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。そこで、主は仰せになった。「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる。 ただし、王国全部を裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。」(列王記上11:9~13)

 

ソロモンは、将来罪を犯すイスラエルのために執り成しの祈りを献げたにもかかわらず、イスラエルの滅亡の発端になってしまっているのだから・・。

 

自分自身が神になろうとすること以上の罪はないのではないだろうか?

 

いかに幸いなことか 主を神とする国は。(詩編33:12)

 

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性欲そのものは罪ではないだろう。(性欲が強すぎるというのは体質や栄養素の問題であって、罪の問題ではない)。

「産めよ、増えよ」(創世記1:28)という命令と共に神から与えられたものなのだから、それがなければ神からのご命令にも従えないということになる。

「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)「知る(ヤーダー)」というヘブル語には「殺す」、「交わり犯す」という意味もあるそうだから、「父母を離れて女と結ばれ一体となる」(創世記2:24)ということの中には「犯す」ということも含まれていると考えられる。

そしてそこまでは許されていると捉えられる。

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しかし、性欲にしても金銭欲にしてもそこに付随してくるものによって罪となる、ということが言えるのではないだろうか?

「認められたい」とか、「金に物を言わせて」というように、「神のように」という権力欲と結びついてくると罪に陥るということになるのだと考えられる。

 

そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。(列王記上11:7〜8)

この中の、「また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」、ここが最も問題であるように思う。「妻たちすべてのためにしてやる」というのは、一見、良いことのように思える。多くの妻や側室を持っていても同じように愛したと言えば、立派なことのように思えるだろう(笑)。

しかし、身の程を弁えなくてはいけない。

 

ここで私はヤコブを思い浮かべる。

ヤコブは舅の罠に嵌められてレアとラケルの姉妹二人を娶ったが、子を欲しがるラケルに対してヤコブ「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」(創世記30:2)と怒っている。

ヤコブは神に成り代わろうとしていないのである。

 

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