風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

偶像崇拝と娼婦とソーニャ ー ドストエフスキー『罪と罰』38

「愛は、踏み留まる ー ドストエフスキー『罪と罰』37で引用したラスコーリニコフのソーニャについての考察は、以下へと続いていく。

 『彼女には三つの道がある』と彼は考えた。『運河に身投げするか、精神病院にはいるか、でなければ・・・・・でなければ、いっそ淫蕩に身をゆだねて、理性を麻痺させ、心を石にかえてしまうことだ』最後の想像は、彼にとってもっともいまわしいものだった。しかし彼はすでに懐疑派だった。それに若くて、抽象的で、したがって残酷だった。となれば最後の道、つまり淫蕩がもっともありそうなことだと信じないわけにはいかなかった。

 『だが、はたしてそれが本当だろうか』彼は心のなかで叫んだ。『はたしてこの女も、いまだに精神の純潔を保っているこの少女も、最後にはやはりあのけがらわしい、悪臭のただよう穴のなかへ、それと知りながら引きこまれて行くのだろうか?(岩波文庫罪と罰 中』p278~279)

 

ここを読むと、ドストエフスキー偶像崇拝について言及しようとしているのではないかと思わされる。

 

「王ソロモンの罪でも引用した聖書を読むと、多くの妻や側室によって、他の神々を拝むという偶像崇拝へと繋がっていくことが分かる。

神殿には神殿娼婦がいて、巫女的な役割を果たしていた(参考:『新共同訳聖書 聖書辞典』)という。「聖書辞典」によると、「農業生産に関連した祭儀において、神と女神との性的関係で自然の産物が生ずるとの信仰」によって、神殿娼婦が巫女的役割を果たしていたということである。

ここから、娼婦という存在が他の神々を拝む偶像崇拝へとつなげていくと思われる。

 

神に祝福を求めたヤコブは神から大いなる繁栄を与えられたが、子を欲しがるラケルに対して「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」(創世記30:2)と言っている。命は神から与えられるものだということだ。

これに対して、収穫を願う農耕宗教のこの儀式は、人間の手によって農耕神を動かそうとするもののように見える。「言うことを聞かせる」というような・・。

つまり、これは農耕の神を祭りながら人間自らが神になろうとしている行為であるように思えるのである。

 

マタイによる福音書のキリストの系図の中には、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」(1:3)と記されている。

このタマルという女性は、ユダの長男エルの嫁だが、エルは主の意に反したことによって神によって殺されたので、ユダは次男であるオナンに「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」(創世記38:8)と言う。しかしオナンは子孫が自分のものとならないことを知っていたので「兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した」(38:9)。このことは主の意に反することであったので次男もまた神によって殺される。

ユダは三男までもが兄たちのように死んではいけないと考えて、タマルを実家に帰らせるのである。

その後、ユダの妻が死んだ後に、タマルは娼婦のふりをしてユダに近づく。こうしてイエス・キリスト系図の中に「ユダはタマルによって」とユダの息子の嫁の名が記されているのである。

これは神のご計画である。聖書(創世記38章)を読むと、神がタマルを導いておられたことが分かる。

 

さて、キリストの系図の中には本物の娼婦も記されている。ヨシュア記に登場するラハブである。

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このラハブをモデルとして、ドストエフスキーはソーニャを描き出したのかも知れないとも思えるのである。ラハブとソーニャの境遇が似ている気がする。

 

 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」(ヨシュア記2:12、13 新共同訳)

 

ヨシュア娼婦ラハブとその一族、彼女に属するすべての者を生かしておいた。ヨシュア記6:25 フランシスコ会訳)

 

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そう、愛〈神〉は、踏み越える(娼婦が生きる場まで行かれる)のであり、(他者のために苦しい境遇にも)踏み留まるのである。

 

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