ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。(ルカによる福音書23:32~34)
(赤字表記はブログ管理人ミルトスによる)
「苦難の僕、主イエス・キリスト」
2022年2月27日(日) 復活節前第7主日
聖書箇所:ルカによる福音書 23章32節~38節
(略)
そのときイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と、自分を十字架に付ける者たちのために執り成しの祈りを献げました。
この箇所は私たちが使っている新共同訳聖書では、〔 〕に入れられています。新共同訳の凡例を見ますと「後代の加筆とみられているが、年代的に古く重要である箇所を示す」とあります。ここでこの箇所が後代の加筆かどうか論じるのは、福音書が伝えようとしているメッセージから離れていってしまうので、適当ではありません。それは説教ではなく、聖書研究の務めです。
わたしはこのままイエスの祈りとして聞いていますが、その理由として二つをお伝えしておきます。
一つは、聖書の底本を確定するために日夜研究している聖書学者たちが本文から外さず、括弧に入れてでも本文に残したということ。
もう一つは、ルカがこの福音書に続いて編纂した使徒言行録において、ステパノが石で打たれて殺される場面で、ステパノの「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒 7:60)という祈りを記しています。これは主イエスの十字架の祈りに導かれたからこそ祈られた祈りだと思うからです。
イエス キリストがわたしたちの救い主として、わたしたちの罪を負ってくださったことと、わたしたちの救いのために執り成していてくださることを証しする祈りがこの祈りです。イエスが主であってくださるので、わたしたちキリスト者は、主の贖いと執り成しとに与って、救いの御業に仕え、わたしたち自身も執り成しの祈りを献げていくのです。
全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/02/27/191111
以下は、この日の長老の祈り。
父なる神さま、今この世は渾沌の中にあります。どこに真実があるのか分からなくなるような状態です。
しかし、そのような中にあってもイエス様はその身をもって救いの約束を示してくださいました。ただその約束に依り頼み日々を歩んで行くことが出来ますように切にお願いいたします。
この祈りを、貴き主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。
アーメン!
世界に戦争が起こりそうな昨今である。