風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「復活の救いへと招かれる」ヨハネによる福音書20:1~18

 「復活の救いへと招かれる」

 2023年4月16日(日) 復活節後第1主日

聖書箇所:ヨハネによる福音書  20章1節~18節

 

 イエスが十字架で命を献げられたのが金曜日でした。ユダヤでは日没から一日が始まるとされていました。土曜日は安息日だったので、金曜日の日没、安息日が始まる前にイエスは埋葬されました。アリマタヤのヨセフが、イエスの遺体の引き取りを願い出、ニコデモが没薬と沈香を混ぜたものを用意し、遺体を、香料を入れた亜麻布で巻き、新しい墓に葬りました。

 そして安息日が明けた週の初めの日、つまり日曜日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアが墓へやってきました。

 マグダラのマリアヨハネによる福音書には名前が出てくるだけで、彼女がどんな人なのか分かりません。もしかしたら、この福音書を編纂したヨハネとその周囲では、よく知られた人で説明の必要がなかったのかもしれません。しかしルカによる福音書には、彼女は7つの悪霊をイエスに追い出してもらいイエスに従ったとルカによる福音書8章2節に書かれています。

 彼女は朝早くに一人イエスの墓へやってきました。すると、墓の入り口をふさぐ石が取りのけられていました。マリアは、ふさいであるはずの石が取りのけられているのを見て慌てたのでしょう。急いでペトロと、もう一人の弟子、名前が記されていませんが、イエスが愛しておられた弟子のところへ走りました。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」

 ペトロともう一人の弟子は、急いで墓へと向かいました。もう一人の弟子の方が、ペトロよりも先に墓に着きました。そして身をかがめてみると、遺体を包んでいた亜麻布が、そこに置いてあるのを見ました。しかし、中には入りませんでした。後から来たペトロは、墓の中に入りました。彼も亜麻布がそこに置いてあるのを見ましたが、イエスの頭に巻いてあった布は、離れた場所にくるめてありました。もう一人の弟子も入ってきて、これを見てイエスの遺体が墓にはないことを理解しました。しかし、彼らは、死人のうちから、イエスがよみがえるべきことを告げたイエスの言葉を、まだ悟ることはできませんでした。イエスは、十字架におかかりになる前に何度か、自分が十字架にかけられること、しかし、復活することをお語りになっていました。しかし、弟子たちは、師と仰ぐイエスの言葉を信じることも、悟ることもできませんでした。

 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行きました。しかし、マリアは悲しくて墓の外に立って泣いていました。イエスが死んでしまった今、イエスが葬られた墓に来ることしか彼女にできることはないのに、その墓にさえ、イエスの体はないのです。

 彼女は泣きながら、身をかがめて、墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が、イエスの遺体の置かれていた場所に、ひとりは、頭の方に、もうひとりは足の方に、すわっていました。彼らは、マリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねます。天使たちは、マリアが泣いている理由が分からないのではありません。彼女を復活のイエスに出会わせるための先触れとして、天使たちは遣わされたのです。

 マリアは答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。そう言いながら、後ろを振り向くと、そこにはイエスが立っておられました。しかし、マリアはイエスであることが分かりませんでした。イエスはマリアに言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリアは、その人が園の番人だと思って言います。「あなたが、あの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」。マリアも復活を信じることはできずにいました。

 イエスは「マリア」と呼びかけられます。マリアは振り返り、イエスに「ラボニ」と答えます。これはヘブル語で「わたしの先生」という言葉です。ヨハネによる福音書ギリシャ語で書かれていますが、ヨハネは、ここはそのままの言葉を伝えたいと考えたのでしょう。

 自分の目で見ても、マリアは復活のイエスが分かりませんでした。これは、ルカによる福音書に書かれているエマオへと向かう二人の弟子たちもそうでした。肉の目で見ても、イエスの復活が分かるのではありません。気づかせて頂かなくては、理解することも信じることもできないのです。

 

 エスに名を呼ばれたとき、マリアは目覚めさせられました。死の世界の中に、イエスを捜し求めていたマリアは目覚めさせられ、復活のイエスに出会ったのです。

 わたしたちは、呼びかけられることによって、共に生きる関係へと導かれます。

 母の胎に命が宿ったことが分かったときから、わたしたちは呼びかけ、語りかけます。声が聞こえているかどうか分からない。言葉を理解できないかもしれない。それでも、わたしたちは命に向かって呼びかけ語りかけます。元気に生まれてくるように、愛をもって、祝福をもって語りかけ呼びかけます。

 そして、生まれてきた子どもは「〇〇くん/〇〇ちゃん、一緒に遊ぼう」と呼びかけられて、交わりに招き入れられます。

 わたしたちは名を呼ばれることによって、共に生きる関係に招かれ導かれていくのです。

 イザヤ書 43章1節に、こう書かれています。「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

 エスがマリアの名を呼んで、復活の救いへと招かれたように、神は今も、わたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。罪の世において、心囚われて悲しみ続けることのないように、神の救いの恵みに与るようにと、神はわたしたちの名を呼んでおられます。

 イエスは彼女に言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父の御許に、上(のぼ)っていないのだから。わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方ところへわたしは上(のぼ)る』と。

 イエスが十字架によって罪を贖い、復活によって死を打ち破られた今、この世にあってイエスにしがみつくのではありません。

 聖書は、コリントの信徒への手紙Ⅱ5章16節で「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」と言っています。

 

 讃美歌21には「心を高くあげよ!」という讃美歌があります。その1節の歌詞は「『心を高くあげよ!』主の御声に従い、ただ主のみを見上げて、心を高く上げよう」とあります。

 わたしたちは、イエスの救いの御業の中で、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きるのです。罪の世に属するものを脱ぎ捨てて、復活の主の恵みに包まれて生きるのです。

 マグダラのマリアは弟子たちのところに行き、復活の主に出会ったこと、またイエスが自分に仰せになったことを報告しました。

 こうして、イエスを信じる弟子たちによって、イエス キリストの福音が宣べ伝えられるようになりました。そして今、わたしたちもキリストの福音を宣べ伝えています。神が創られ愛しておられるすべての人が救われて、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きることを願って宣べ伝えているのです。

 ここに集う皆さん一人ひとりにイエス キリストの復活の恵み、そして復活の命が限りなく注がれますように。

 祈ります。

 

今日、代読して下さった長老は、説教の後のご自身のお祈りをサイトに残されないので、掲載することが出来ず残念です。

 

 

 

 

 

 

 

「イエスだと分かった」(ルカによる福音書24章13~35節)より説教

(13:04~)自分達が見て信じたものは…キリストに出会ったその認識が薄れていく。だから彼らはもう一度不信仰の中に陥る訳です。あそこで二度会ったのにペテロ達は、見たキリストそして信じていた訳ですけれども、それが薄れていって…もう一度普通の日常生活に戻ろうとしていた。

(14:07~)聞いて信じるっていうことはそこで何が起こっているか?そこで神さまの聖霊が働いて私たちに信仰を与えてくれた、と。…。そこでは私が信じようと思って信じれるものではないわけです。自分の自意識でこういう風な信仰を持とう、持とうと思っても、それは絶対出来ない。私たちが聞いて信じるという不思議な出来事が自分の中で起こった時には、それは神さまの霊が私たちの魂に働いて信仰をお与えになった。

(16:30~)「聞いて信じる者は幸い」、それは神さまの業なんですね。聖霊が与えて下さっているから、もうなくならない。

(24:12~)イエスご自身が近づいてきて

https://drive.google.com/file/d/1q1Xx9KhnCdAuBt9vKhkTY3WnMidnTgiX/view

 

このお説教をお聴きしていて、小林秀雄botの言葉を思い起こした。