風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「今は、眠りて、休め」(マルコによる福音書14:41)

「肉体は弱い」(マルコによる福音書14章26~42節)

https://drive.google.com/file/d/1rKnquhXZBuI4Z7QNIVGu91SbjudnSD-k/view

一番注目しなければならないのは、マルコによる福音書の14章の41節です。「イエスは3度目に戻ってきて言われた、あなたがたはまだ眠っている、休んでいる」、この翻訳であります。これは、口語訳では「あなたがたは、まだ眠っているのか、休んでいるのか」と疑問文で、弟子たちを叱咤する言葉で解釈されていたわけです。(略)文語文はこうなんです、「今は、眠りて、休め」と、命令形なんですね。これは原文が命令形なんです。だから、文語文は「今は、眠りて、休め」と命令形で訳した。

 

「今は、眠りて、休め」、なんて慰めに満ちた言葉だろう。

言葉が分かったら、どんなに良いだろうといつも思う。

 

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com

 この杯というのは、これから負われる十字架のことです。イエスは神の子だから何の苦もなく十字架を負われたのではありません。罪人の救い主として真に人となられたイエスにとって、十字架はできることなら取りのけてほしいものでした。十字架は罪の裁きです。罪故に神に見捨てられることです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34、マタイ27:46)と叫ばずにはいられない苦しみ、悲しみ、それが十字架です。イエスは真に人となられて、罪人の苦しみ、悲しみを負ってくださいました。

 しかしイエスは続けて「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。これは主の祈りの「御心が行われますように。」(マタイ6:10)と同じです。イエスは主の祈りを教えてくださっただけでなく、わたしたちと共にこの祈りを祈っていてくださいます。

 

(略)

 

 イエスが祈っておられると「天使が天から現れて、イエスを力づけ」ました。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られ」ました。そして「汗が血の滴るように地面に落ちた。」のです。イエスはわたしたちのために、そしてわたしたちと共に信仰の戦いを戦ってくださったのです。信仰の戦いには、神の助けが必要なことを天使の力づけを受けることを通して示し、その助けが確かにあることを示してくださいました。

 そして「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠りこんで」いました。

 イエスは「石を投げて届くほどの所」で祈っておられました。どれほどの時間、イエスが祈られたかは分かりませんが、弟子たちはイエスの祈りの言葉を聞き、切に祈る姿を見ていました。だからこうしてイエスの祈りの言葉、その姿が語り継がれ、福音書に記されたのです。

 弟子たちは、このエルサレムでイエスが苦難を受けると告げられたこと、自分たちのところから去って行くと言われたことを思い返し、深い悲しみに包まれ、悲しみのあまり意識を保ち祈り続けることができませんでした。

 イエスは彼らが眠ってしまっているのをご覧になり、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」とお語りになりました。

 

(略)

 

 ここで「起きて」と言われた言葉は、聖書では「復活する、よみがえる」という意味で使われる言葉です。ですからここの「起きて」は霊的に目覚めていること、罪の中で眠っている、死んでいるのではなく、神の御前に立っていることを表します。そして神に語りかけ、神の声を聞くのです。

 

(略)

 

 祈りは、他でもなくわたしたち自身のために与えられたものであり、神と共に生きるために与えられた信仰の武器、そして恵みの賜物なのです。