一年半ぶりに面会が許された。色々規制のかかった面会だったが、従兄弟からの電話の内容を伝えた。目も開けず、じっと聞いているようだったが最後に、「『私は仏教だけど祈ってるから』って言ってくれてたよ」、と言うと、深く何度も頷いた。
かつて夫は、説教で、こんな風に語っていたのだった。
fruktoj-jahurto.hatenablog.com
人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。
しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。
一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。
そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」
わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。イエス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。
父なる神様、この時を感謝致します。
あなたが今日まで○○を守ってくださったことを感謝致します。
私たちがこれからもあなたの愛を深く覚えることができますように。
お世話になっている○○病院のお一人お一人に感謝致します。
コロナ禍の中で医療に携わる人達をどうかあなたがお支えください。
この祈りをイエス様の御名によって祈ります。アーメン。