風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「本当に大事なもの」(ホセア書9:1~9)

  「本当に大事なもの」

 
 2022年11月6日(日) 聖霊降臨日後第22主日

聖書箇所:ホセア書  9章1節〜9節

  
 今日の聖書の箇所、預言者ホセアのこの言葉は、秋の収穫祭である仮庵の祭の際に語られた言葉です。仮庵の祭はイスラエルの三大祭の一つで、そのうちで最も盛大に祝われた祭です。チスリの月の15日、すなわち秋分の日に近い満月の日から1週間行われた祭りです。当時イスラエルは春と秋と2回新年を迎えていたのですが、この仮庵の祭は、秋の収穫を終わり、新しい年に入ってから守る祭で、人々はぶどう・いちじくなどの収穫をし、感謝をもって年を終わり、新しい年を迎えるのです。人々は田畑に仮小屋を作り、そこで寝起きし、収穫の感謝の供え物をしました。この収穫感謝に歴史的意義が加わり、荒れ野での40年にわたる天幕の生活と結びついて、「仮庵の祭」と呼ばれるようになりました。この祭の最後の日には、聖書日課の最後の段落である申命記33章34章が朗読され、この日は「律法の喜び」と呼ばれ、読み終えられた律法の巻物は直ちに巻き返され、次の新しい年度の朗読に備えました。

 新約では、ヨハネによる福音書7章2節に仮庵の祭が記されていますが、この時には荒れ野で岩から湧き出した水をかたどり、シロアムの池の水を汲んで毎日祭壇に注ぐ行事が行われていました。また神殿の婦人の庭に4つの高い燭台を立て、荒れ野でイスラエルを導いた火の柱を記念していました。

 

 さてホセアはこのイスラエル最大の祭のさなかに預言したわけですが、この時多くの巡礼者が全土から喜ばしい祭のためにベテルあるいはサマリアの聖所に集まってきました。集まった人々の喜びの歌・感謝の歌を遮って、祭の喜びの杯に苦い一滴を注ぐように、預言者の厳粛な非難の言葉が告げられたのです。このような場面において、個人が大衆に、その最も神聖としている感情や希望を傷つけるような言葉をもって対抗していくには、どれほど強い勇気を必要とするか、ということを考えさせられます。預言者が嘲りと迫害の中を歩んだのも当然のことと言えます。

 ホセアが「喜ぶな」と命じたのは、人々の喜びが神に対する不信仰から生まれたものだったからです。ホセアは、イスラエルの民が行う祭を批判して、神に対する祭ではないと非難します。イスラエルは豊作の神バアルに擦り寄り、豊かさを第一に約束する偶像を愛しました。ホセアにしてみれば、イスラエルが献げる収穫物は淫行の報酬とも言うべきものでした。イスラエルは献げ物さえ持ってくれば神に顧みられると考えていたようですが、それはあり得ないことでした。 勘違いしてしまうような豊かな時代があった。丁度今のわたしたちのように・・・。

 

 預言者は偶像礼拝を認めません。もし神との関係がイスラエルの不信仰によって壊され、その結果、契約の真実に支えられた祭ができなくなれば、存在意義を失った神の民は滅亡へと向かうばかりです。彼らが求めた豊かさもいつしか離れ去っていくでしょう。どれほどバアルを礼拝したとしても、彼らが頼りとしたものは応えてくれず、必要としたものは手から去り、そして、神の救いの御業の結果与えられた約束の地をも離れ去ることになるでしょう。まるでエデンの園で罪を犯したアダムとエバエデンの園を追われたように。

 本当に大事なものを捨ててしまうとはどういうことなのか。どんなことになってしまうのか分かっているのか。

 4節にそのことが記されています。4節はヘブライ語本文の破損があり、どの聖書を見てもそれぞれ訳が違うほど本文の確定が難しいところです。4節、5節「主にぶどう酒を献げることもできず、いけにえを献げても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像に献げられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。祝いの日、主の祭の日にお前たちはどうするつもりか。」

 

 今、人々は祭を喜んでいますが、本当に大事なものを捨ててしまうとわたしたちは祝うということができなくなってしまいます。どの民族であっても、祝い事・祭のない民はいません。人は生きることを喜びたい、感謝したい。しかし本当に大事なものを捨ててしまうと、人が生きる上で欠かすことのできなかった祭ができなくなってしまいます。 たとえ神のもとを去り、偶像に寄りすがっても、そこには希望や喜びや感謝はあません。

 6節「見よ、彼らが滅びを逃れても、エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ、天幕には茨がはびこる。」

 神を偽り、神の言を軽んじる民に審きが下されます。

 7節~9節「裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので、預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。預言者はわが神と共にあるが、エフライムは彼を待ち伏せて、その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け、その神の家を敵意で満たす。ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。」

 神の民は神に従うのではなく、自分たちのあり方を非難する預言者を葬り去ろうとします。預言者は愚か者・狂った者とされ、預言者に敵対し、神に敵対する敵意が国を覆います。神の愛で満たされるはずの国が、神に対する敵意で満ちるとは悲しむべき出来事です。神の裁きによってしか罪から離れることができないとは・・・。 

 

 

 しかし、これで終わってしまうのではありません。神はこの罪人のために御子を救い主として遣わされました。淫行の価しか神のもとに持ってこれない罪人のために、完全な贖いの供え物として御子を差し出されました。献げられない民に代わって神が献げてくださいました。

 聖晩餐はその神の救いの御業を証しするもの。わたしたちに対する神の愛を証しするもの。わたしたちを喜びで満たす主の祝宴です。神は「これを受け取って喜べ」と聖晩餐を備えてくださいました。

 罪のままでは喜ぶことができない。神から離れたままで喜ぶことはできない。神のもとにこそわたしたちの本当の喜び・感謝・祭があります。 

 

 厳しい預言者の言葉を支え続けたのは、限りない神の愛です。

 

 

祈ります。

 主イエス・キリストの父なる神さま。わたくしたちはこの世の事柄に心奪われ神さまの姿を見失ことの多い者です。

このようなわたくしたちのために、独り子イエスさまを遣わしてくださるほど、この世を愛して下さいました。

神さまのその愛に依り頼んで日々を歩んで行くことが出来ますように切にお願い致します。

この整いません小さな祈りを、主イエス・キリストの御名によりましてお献げいたします。

   アーメン

 

 

長老方の代読をお聞きしていると、ここを伝えようと、強調して読んで下さっているのが、分かる。ほんとうに感謝!

 

 

今日の説教は「厳しい預言者の言葉を支え続けたのは、限りない神の愛です」と締め括られているが、厳しい真実を語るというのは、現代においても、牧師でもなかなかできないものではないかと思える。

いつもお聞きしている他教会の先生の今日のお説教も真実を語っておられて、感銘を受けたのだが、今の時代にここまで語ることのできる牧師はそれほど多くはいないと思った。避けて通れるものなら通りたい、お茶を濁してお仕舞いにしたい、そう思える事柄に向き合って語るというのは・・。

しかし、罪と向き合って語る所においてこそ、キリストの十字架が際立って見えてくるのではないだろうか。

 

「人は皆、罪人なのだ」、「人は皆、神の救いを見る(ルカによる福音書3:6)」(今日のお説教から)