風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「御言葉の飢饉」(アモス書8:1~12より長老の説教)

  「御言葉の飢餓」

 

 2022年9月25日(日) 聖霊降臨日後第16主日

聖書箇所:アモス書   8章1節〜12節

 

 今日は、アモス書から御言葉を聞くことにいたしました。

 アモス書を選んだきっかけとなったのは、3月の受難節に、代読を担当した○○先生の説教です。説教は、ルカによる福音書の23章44節から49節までの御言葉で、主イエスが十字架にかかって、地上での生涯を終える場面でした。十字架にかかった主イエスの一番近くにいた百人隊長が、イエスの十字架上での様子を最初から最後まで、ずっとそばで見ており、主イエスが息絶えたときに「本当にこの人は正しい人だった」と告白し、そして群衆も胸を打ちながら帰っていったという場面です。力強い説教で、代読の準備をしながら、とても感銘を受けました。

 ルカ福音書23章の44節と45節に「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」と記されています。○○牧師は、これは、神様がしるしとして与えられたもので、裁きが行われたことを表す出来事であると、解説をしています。それと同時に、今日お読みした、アモス書8章9節に「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ白昼に大地を闇とする。」と書かれていると、アモス書の引用にも触れています。つまり、十字架の場面を、既に旧約の時代に預言していたということになります。

 ですので、このアモス書、アモスという預言者がどんな人物で、一体どんな預言をしたのかについて、学んでみたいと思い、今日の御言葉として選びました。

 

 アモスは、預言の言葉が、文字として記録されている預言者、聖書学的には、記述預言者と分類されるようですが、この記述預言者としては、最初の人物だったようです。

 預言をおこなった時期は、紀元前755年頃だったのではないかとされています。昔の出来事なのに、かなり細かく年代が特定されているのは、人々の記憶に残るぐらいの大きな地震の2年前に預言を行ったためのようです。アモス書の1章の冒頭に、そのことが記されています。

 ちなみに、今、月に1回のペースで読んでいますホセア書の預言者ホセアも、アモスと、ほぼ同じ時期に預言をおこなった人物です。

 このころには、専門教育を受けた預言者もいたようですが、アモスはそうではなかったようです。プロではない、いわゆるアマチュア預言者でした。そのことは、7章、今日お読みした聖書の手前の1438ページの下の段、14節に書かれています。読んでみます。

 「アモスは答えてアマツヤに言った。「私は預言者ではない。預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、イチジク桑を栽培する者だ」

 続く15節、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」とあります。

 前後して恐縮ですが、1章の冒頭には、「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉」と記されています。

 つまり、アモスは、テコアという村で、羊を飼ったり、家畜を育てながら、イチジク桑を栽培することを生業にしていましたが、神様に召しだされ、召命を受けて、イスラエルの都に出ていき、神様からの預言を人々に伝えたのです。

 注解書によると、ヘブライ語では、普通の羊飼いは「ローエー」と書くようですが、ここでは「ノーケード」という「飼育者」という言葉が用いられているようです。また家畜を育てるとありますが、当時の代表的な家畜は、牛を指していたようです。そのため、羊飼いというと、経済的には貧しいイメージがありますが、アモスは羊や牛を育て、繁殖させるような仕事をしていて、経済的には豊かであったと考えられています。 

 

 召命を受けたのは、神様が示した「幻」がきっかけでした。

 今日の8章には、冒頭、「第四の幻」と見出しにあります。7章には、第一から第三までの3つの幻が、そして、9章には「第五の幻」と見出しにあります。これらの幻を受けたので、アモスは、召命を受け、人々に預言を行ったのです。

 今日の第四の幻には、2節のところ、神様がアモスに何がみえるかと質問をし、それに対してアモスが「一籠の夏の果物」が見えますと答えた後、神様は「わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない」と、神様は、イスラエルは滅びると、とてもおそろしいことを告げています。

 

 当時のイスラエルは、先々週のホセア書でも見たように、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していました。北のイスラエル王国をおさめていたのはヤロブアム王という人物でした。南北に分裂したときの王もヤロブアム王という名前だったので、区別するために、ヤロブアム2世と呼ばれていますが、彼は、とてもマネジメント能力の高い王だったようで、貿易等を促進し、北イスラエル王国に経済的な繫栄をもたらしました。

 南北に分裂したのが、紀元前922年頃で、イスラエル王国アッシリア帝国に滅ぼされたのは紀元前722年頃と言われていますので、北イスラエル王国は、およそ200年間続いたことになりますが、ヤロブアム2世の時代は、紀元前750年前後ですので、滅びる直前にあたりますが、このころが、北イスラエル王国の全盛期だったようです。ちなみに先々週のホセアの預言は、ヤロブアム2世の死後のもので、北イスラエルに、一気に、ほころびが生じた時代に行われたものでした。

 

 このイスラエル王国が全盛期だった時代背景を、日本で例えると、昭和の高度成長期やバブルの時期に似ているかもしれません。私は、1988年に就職しましたので、そんなに長くはありませんが、バブルを直接、体験しました。明日は、もっと生活が良くなる、物質的に豊かになるという雰囲気が、世の中全体に充満していて、ある意味で、世の中が明るく、とても活気のある時代だったと思います。

 当時の北イスラエルも同じような状況だったのではないかと思います。明日は、今日よりも、もっとよくなると期待や希望がみなぎっていたのではないかと思います。しかし、繁栄のうらには隠された弊害が潜んでいました。

 

 8章の4節から6節、「4このことを聞け。貧しい者を踏みつけ 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。5お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。 6弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」

 これはイスラエルの、特に勝ち組にあたる豊かな人々に向けられた預言です。彼らは、神様を信じ、礼拝を一応は欠かさずに捧げていました。しかし、心は、決して神様を向いていませんでした。新月祭、安息日、これらは、いずれも神様に一人一人が向き合うために与えられた礼拝の時ですが、人々は、礼拝を守りながら、心の中では、早く礼拝が終わってほしいと心待ちにしながら、もっと豊かになるためにはどうすればよいか、そのためになら多少の不正を働いてよいと、礼拝の最中でさえ思いめぐらしているではないかと、指摘します。

 そもそも全知全能である神が、豊かさも与えてくださっているのに、そのことを忘れてしまい、自分たちの力で獲得したように錯覚している。神様の方を向かないで、自分たちの方だけを向いている、自分たちの物差し、判断が正しいと信じ、その結果、他人を苦しめることが平気に行われている。

 神様を中心に置かないで、自分たちを優先していることで、生きるための土台が崩れてしまっていると、アモスは厳しい口調で預言をします。

 

 アモスは、テコア出身の牧者と申しましたが、このテコアは、エルサレムから25キロほど南の村で、当時、北イスラエル王国ではなく、南のユダ王国の領土でした。

 ですので、実は、アモスは自分の住んでいる国ではない、隣りの国にわざわざ出向いて預言を行ったということになります。ある意味では、とてもおせっかいなこととも言えます。

 しかも、預言の中身は、人々を喜ばせたり、力づけたりするものでなく、人々にとって、耳が痛い、聞きたくない言葉ばかりでした。アモス書は9つの章から構成されていて、今日は8章を読みましたが、最後の9章の11節から15節を除いては、神からの裁き、人々への警告や非難で埋め尽くされています。しかも、9章最後の希望の預言も、学説では、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされて捕囚された時代かそれ以降に加筆されたもので、アモス自身が語った預言ではないという説が有力なようです。つまり、この学説に立つとアモスは、人々を喜ばせるような預言は全く行っていないということになります。

 耳障りの良くないことばかりを述べるということになると、人々は拒絶し、さらには自分の身にも危険が及ぶおそれもあります。

 けれども、神様は、もちろん、そのことをご存じで、あえて南ユダのアモスを召しだして、彼を用いようとされました。そして、アモスも、自分の安定した地位を投げうって、身の危険も覚悟しつつ、神に従ったのです。これは、私たちの常識では到底理解できないことだと思います。ここに、神様の計り知れない御業、ご計画を垣間見ることができるのではないかと思います。

 

 アモスの預言は、さらに続きます。9節から12節、「9その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする。10わたしはお前たちの祭りを悲しみに 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え どの腰にも粗布をまとわせ どの頭の髪の毛もそり落とさせ 独り子を亡くしたような悲しみを与え その最期を苦悩に満ちた日とする。

 11見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。 12人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。」

 

 10節に独り子を亡くしたような悲しみを与えるとあります。「独り子」が亡くなるということは、当時は、地上で最も愛すべき者と別れるという以上の意味を持っていました。一族の家系、血統、そして財産は、長男が継ぐことになっていましたので、「独り子の死」は、自分たち一族の系譜が途切れてしまうことを意味します。自分のみならず一族全員の希望が、一瞬にして消えてしまうことを意味しています。

 粗布をまとう、髪の毛をそり落とす、これらも当時、悲しみに打ちひしがれて、喪に服すことを意味していました。つまり、当時の人々にとって、「独り子の死」とは、これ以上、悲しい、残酷なことはないと考えられるような出来事を指していました。

 さらに11節、12節で飢えと渇きがおこると告げます。その飢饉とは、食料の飢饉ではなく、渇水という水の飢饉でもなく、神様の言葉への飢饉であると告げます。

 主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない、神様を求めようとしても、どこにも見つからない、完全に見失ってしまう、そして滅びに至るのだと、アモスは預言します。

 アモスは、神様が、自分を捉えてくださっている。自分のいのち、人生は、すべて神様の御手の中にあると固く信じていました。そして北イスラエルの人々にも、その原点に一刻も早く立ち帰ってほしいと願い、預言をおこないました。

 

 主イエスの十字架での死を、独り子を失うという出来事として、当時の人々の状況と重ねて考えますと、当時の人々にとって、これ以上悲しいことはないという出来事は、「独り子の死」でした。その出来事を、神様は、まさに主イエスの十字架の死において、神ご自身の意思で行われました。一番つらいことを自らの意思で行う、これは、神様の愛の深さ、大きさに、他なりません。私たち人間を何とかして救い出そうとしてくださっている証しに他なりません。

 神様が、どれほどの痛みや苦悩を持ちながら、私たちに独り子を差し出してくださったのか、このことを、北イスラエルの人々の「独り子の死」の持つ絶望と重ねて見つめたいと思います。そのことによって、心が鈍い私たちにも神様の愛がどれほど大きいものであるかを知ることができるのではないかと思います。

 神様のわたしたちへの深い愛を知り、アモスが命がけで預言したように、御言葉の飢饉が起こらないよう、生きるための土台を崩してしまうことがないよう、常に神様に立ち帰る歩みを持ちたいと思います。          

 

 祈ります。

 

 

牧師を病院で寝かせたままにして、神様は、ご自身の奇しき御業を着々と推し進めておられる。

 

 

この花が、

これ以上、下に落ちて行かないように、

小さな葉が留めている。