風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

信仰義認の根拠となる聖書箇所について、ふたたび

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。 

 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。(ヘブライ人への手紙11:1~38 新共同訳)

 

ここまで、先人達の信仰についてが語られ、認められているようなのだが、救いの完成という点では、次の39節、40節で覆されている。

 

 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。ヘブライ人への手紙11:39,40 新共同訳)

 

そして12章へと続く。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。( ヘブライ人への手紙12:1,2 新共同訳)

 

「信仰義認」については、あらゆる箇所から、また聖書全体から読み取れるのだろうと思うが、ここでも、自分達人間の信仰に先だって「信仰の創始者としてのイエス・キリスト「信仰」が語られている。

 

先人達の「信仰」も、「この信仰のゆえに神に認められ」た(11:2)が、完成されてはいなかったと言っているのだ。

 

神であるキリストが神の座に固執せず人となってこの世に来られ、十字架に就かれ、死に至るまで耐え忍ばれた。

そのキリストの「信仰」によって先人達の信仰も完成されたのだと語っていると考えられる。

 

先ず、父なる神へのキリストの信仰」が先になければならない。

 

ところで、ここで11章39節、40節の田川建三訳を見てみよう。

 これらの者もみな信によって証しされたのだが、約束(されたもの)を受け取ることはなかった。神は我々(キリスト信者)についてもっと良いものを前もって考えておいて下さっているので、我々なしにこの人たちが完成されることはなかったのだ。(ヘブライ人へ11:39,40『田川建三訳著 新約聖書』より)

 

この田川訳の40節の二つの「我々」のうち、先の方の「我々」には「キリスト信者」と括弧書きが付けられている。これは、後の方は「同上」ということで省略したのか、それとも・・?

 

私は、この後の方の「我々」は三位一体の神を表しているのではないかと考える。

前後の文脈から考えれば、おかしいと思えるかも知れない。しかし、聖書の中には突然神の言葉が挿入される場合がある。ここでは、聖霊が降ってパウロをして語らせていると私は捉える。

 

つまり、「我々(父なる神と、父なる神に従って十字架に就かれた子なる神イエス・キリスト、そしてその救いの業について知らせてくださる聖霊なる神)(の働き)なしに、人間の信仰が完成されることはなかった」と語っているのではないか、と。

 

さて、ここで、リビングバイブルの訳も記しておこう。

 彼らの信仰は神から称賛されるほどでしたが、だれ一人、神が約束されたものを全部、手に入れたわけではありません。彼らが待ち望んでいたのは、もっとすぐれた報いであり、神もやがてそれをお与えになるつもりでした。それは、私たちのために用意されている報いと同じです。(ヘブル人への手紙11:39,40 リビングバイブル2017年改訂新版再刷より)

言っていることがすんなりと入って来る。リビングバイブル、侮れないなぁ、と思う。

 

myrtus77.hatenablog.com

実は、この箇所は、前に信仰義認となる聖書箇所について調べていて見つけたところなのだが、「信仰義認」の根拠となるというわりに訳がどれも腐っていると思って取り上げなかったのだった。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 

 

 

とある駅に活けてあった日向水木の生花(しょうか)が素敵だったので写真に撮った。

ただちょっと残念なのは、株分けで配しているのが季節外れの小菊である事。しかも臙脂色。水木の花の春色の淡々しさが活かされない気がする。