風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「アブラハムと結んだ契約」(創世記17:1~8)

  「アブラハムと結んだ契約」

 
2022年6月19日(日) 聖霊降臨日後第2主日

聖書箇所:創世記  17章1節〜8節

 

 ちょうど1か月前の5月22日は創世記 15章1節~6節から共に聞きました。このときアブラムは、神が子どもを与えてくださらないので「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。」と訴えました。神はアブラムを外に連れ出して言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」神の声を聞いて、アブラムは主を信じました。そして主は、これを彼の義と認められました。

 

 続く16章では「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。・・サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。』アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」こうしてアブラムは、妻サライの女奴隷ハガルによってイシュマエルという男の子をもうけます。「アブラムがカナンの地方に住んでから、十年後のことであった。」とあります。そして16章の最後で「ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」と書かれています。12章4節には「アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」とあるので、アブラムがカナンの地に住んで10年後の出来事であったことが分かります。

 

 きょうの17章1節には「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。」とあります。15章,16章の出来事から13年が経ちました。この13年でアブラムの信仰にはどんな変化があったでしょうか。この17章でアブラムは、神の改名によってアブラハムとなり、妻サライはサラとなりました。そして17章16節で神は「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。」と言われます。そのときアブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言います。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」そしてアブラハムは神に願います。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」アブラハムは神の言葉を信じられなくなっていました。

 

 仕方のないことだと思います。そもそも神に召されてハランを立ったとき、アブラハム七十五歳、サラ六十五歳です。サラの女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけたとき、アブラハム八十六歳です。それから13年何もなかったのです。イシュマエルが神の約束の子だと思うでしょう。

 

 しかし神は、人間の予想、この世の予想を超える神の約束の真実をアブラハムに経験させるお考えでした。だからこのときアブラハムは神の声を聞かなければならなかったのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(17:1~5)

 

 アブラハムを召し出された神は、全能の神なのです。アブラハムは全能の神を身をもって知らねばなりませんでした。そしてアブラハムは神の御前に歩み、全き者つまり神を信じて生きる者として証を立てねばなりませんでした。

 神は契約という言葉を何度も繰り返して、神の真実が貫かれることをお示しになりました。その契約の核心部分は、あなたたちの神となる、ということです。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(17:7)「わたしは彼らの神となる。」(17:8)

 わたしがあなたの神なのだ、ということを神は自ら契約を結び、揺るぎないものにしてくださいました。

 

 わたしたちは罪を抱えていますから、いつもほどほどに神を信じています。しかし神は、わたしを信じて全き者であって大丈夫だ、全き者であれ、と言われます。

 そしてアブラハムと結んだ契約は今も変わらないことを示しておられます。

 きょうわたしたちは、アブラハムが聞いた神の言葉を聞きました。アブラハムに語られた神の言葉は、きょうわたしたちに向けて語られました。

 

 わたしたちの神は、自らわたしたちの神となってくださるお方。全能の神であり、わたしたちをご自身の恵みの契約に入れてくださるお方。その契約をイエス キリストにおいて成就し、神の約束が真実であることを証ししてくださったお方です。

 わたしたちはこの世の望みの消えゆくときにも、なお神を信じ、希望を抱くことができるのです。わたしたちには神がいてくださるのです。

 

 

 祈ります。

天にいらっしゃいます神さま。わたしたちの信仰は弱く小さいものです。あなたのことを忘れ歩むことの多いものです。それでもなお、あなたはわたしたちの神さまとなってくださいました。神さまの約束に依り頼んで日々歩んで行くことが出来ますように。

この祈りを、主イエスキリストの御名によりまして御前におささげいたします。

 

 

今日、説教を代読して下さった長老は、後半部分、神様は、「私たちの神となってくださった」という部分に力点を置いて語って下さったように思えた。

 

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は過ぎ去り、もはや海もない。また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降って来るのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも痛みもない。最初のものが過ぎ去ったからである。(ヨハネの黙示録21:1~4)

 

 

「神様がいてくださる」  これ以上の慰めは、私には、ないように思える。

 

 

 

 

今日の玄関の花。