風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「多くの民の命を救うために」(創世記50:20)

「主の山に備えあり」(創世記22:1~19)

 

(略)

 

 アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていたのです。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じていたのです。

 

(略)

 

 神はアブラハムに対し、未来の希望であるイサクをささげ委ねるように求められました。アブラハムに愛するひとり子をささげよと命じられた神は、実はご自分が愛するひとり子をささげる決意でおられました。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださったイエス キリストを指し示すものです。

 イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命をささげきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。神は、わたしたちの生きる道、そしてわたしたちの命そのものを備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛するひとり子を惜しまれない方であり、わたしたちを永遠の命へと導かれる方なのです。

 クリスマスは、神がご自身のひとり子をささげて、わたしたたちが永遠の命に至る未来を開かれた恵みを祝う時です。

全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2017/12/23/153221

 

夫はアブラハムの物語が好きだったが、私は、昔、日曜学校の分級でヨセフの物語を読み聞かせていて、危うく泣きそうになったことがある。

 

ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」(創世記45:1~3)

 

 

以下は、ヨセフの兄達への赦しの言葉である。 

 

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50:20)

 

「多くの民の命を救うために」という言葉の中に、神の赦しの御業が「一人」から「多く」へと拡がっていくことが示されている。そしてこれはキリストへとつながっていく。