風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

田川建三訳註が素晴らしすぎて鳥肌が立った(ローマの信徒への手紙3:22)

fruktoj-jahurto.hatenablog.com ここで一つ注意しなければならないのは、わたしたちの信仰に救いに至る価値があるのではありません。わたしたちの信仰は弱く小さなものです。神を完全に信じ抜くような信仰ではありません。信じることにおいても、イエスがわたしたちに代わって十字架に至るまで神を信じ抜いてくださったのです。行いも信仰も、イエス キリストがわたしたちに代わって、わたしたちのために、全きものを神に献げてくださったのです。

(略)

 ですから、わたしたちの信仰の程度によって救われるのではありません。わたしが熱心に疑いなく神を信じたから救われるのではありません。神がこのわたしを愛してくださり救ってくださったから、信じるのです。わたしたちの信仰が救いに先立つのではありません。救いがあって、信じるのです。

(略)

 それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(22節)と言われていることなのです。すべて信じる人に差別なく与えられる神の義が、エス キリストによってもたらされたのです。

 

荷物を整理していると、夫の卒業論文が出て来た。

宗教改革期の信仰義認の理解ーハイデルベルク信仰問答を中心としてー」。

私は、夫は複数の教理問答の比較を卒論のテーマにしていたと思っていたのだが、「信仰義認」についてだって!

面会で、「卒論、信仰義認について書いたんだね?」と尋ねると、他の事では反応良く二度頷くのに、ここではちょっと考えている風で反応が無かった。「忘れちゃった?」と言うと、微かに頷いたような・・?まぁ、30年も前のことだし・・。

 

ちらちら読んでいて、ハイデルベルク信仰問答第59−61問で引証されている聖書の箇所の中で、もっとも義認の構造がはっきりと記されていると思われるローマ人への手紙第3章21−28節の釈義を行い、どのような義認の理解が聖書的か考えてみる」と記されているところの22節の聖書訳がイエス・キリストの信仰による神の義」と書かれていたので、この訳はどこからのものか次の面会で問い質そうと思い、下調べをしていると・・。

 

実は、この箇所は、前に信仰義認となる聖書箇所について調べていて見つけたところなのだが、「信仰義認」の根拠となるというわりに訳がどれも腐っていると思って取り上げなかったのだった。

今回もまた、フランシスコ会訳、岩波訳、リビングバイブルに至るまで調べたが、イエス・キリスト信仰」ではなくてイエス・キリスト信じる」「信仰」という訳になっていて、ガックリ来た。

しかし、自分の持っている聖書協会共同訳を見ると、「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。 」となっていて、そこに赤で線を引いてあった。

ただ、この聖書協会共同訳は、夫が卒論を書いた時点では出版されていなかったので、これは関係ないということだ。

しかし、私が線を引いたのは、夫から新しい聖書協会共同訳ではこうなっていると聞いたからだと思われる。

 

立派な挿し絵の入った戴き物の「THE HOLY BIBLE」(欽定訳)には、「Even the righteousness of God which is by faith of Jesus Christ unto all and upon all them that believe」と記されていて、明らかに「キリストの信仰」と訳せる。

 

さて、それでやはりここで田川建三訳に当たらないわけにいかないだろうと思い、開いてみると、「それは、イエス・キリストの信による信じるすべての者へといたる神の義である。そこには何の区別もない。」(田川建三訳著『新約聖書 訳と註4』)となっていて、註がまた素晴らし過ぎた!

 

以下、

22 イエス・キリストの信による B写本は「イエス」を抜かして「キリスト」だけにしている。Bは最重要の写本にはちがいないが、さすがに全写本の中でBだけであるから、これは原文の読みではあるまい。多分Bの写本家の不注意。

 これを口語訳は「イエス・キリストを信じる信仰による」と訳した(=ほぼ新共同訳)。「キリストの信」をめぐる議論については、ガラティア二・一六の註参照。その議論を頭に置いていただければ、この箇所を「キリストを信じる信仰」と訳すのはとても無理だ、ということがおわかりいただけよう。加えてこの箇所は、そう訳すると、「神の義」を確立するのは「人間の持つ信仰」だ、ということになってしまう。それでは、「神の義」という絶対的なものが人間の左右できる小さなものになってしまって、とてもパウロ思想ではありえない。K・バルトのこの箇所の訳はすぐれて特徴的である。「神の義は、イエス・キリストにおける〔神の〕信実(Treue)によって、信じるすべての者のために明らかにされた」。

 

  信じるすべての者へといたる (略)いずれにせよ、口語訳(=新共同訳)の「信じる人に与えられる」はまことによろしくない。原文にはどこにも「与えられる」などと書いてない。パウロの考える「神の義」ははるかに巨大なものであって、個々の人間に「はい、これ一つ上げますよ」などと「与える」ような趣旨のものではない。「神の義」という巨大な超越的なものが、個々の人間にまで到達する、ないし「顕される」のである。「神の義」の中にそれまで包摂されていなかった罪人たる人間のところまで今や「神の義」が到達した、ということ。

 

  区別 むろん、この点ではユダヤ人と異邦人の区別はない、ということ。

田川建三訳著『新約聖書 訳と註4』ローマ註3:22より)

 

以下には、ガラティア2:16の註も抜粋で掲載させて頂く。

16 信 (大幅に略)

 では結論として「キリストの信」とはどういう意味か。困ったことに、これが「キリストを信じる信仰」という意味でないことだけは確かだが、ではどういう意味かとなると、定かでない。(略)

 私見では、多分「キリストの信」はパウロ独特の省略表現であって(だから新約のほかの著者たちはそういう言い方をしない、ということなのだろう)、「神がキリストを通じて示した信実」といったことを一言で「キリストの信」と標語的に言っているのであろうか。そのことはまた、「キリストの信」という表現がパウロ書簡においても実はいわゆる「信仰義認」(正確には「信による義」)を論じた箇所にしか出て来ない、という事情からもわかる。(略)

 (略)いずれも、「律法の業績からではなく、神がキリストを通じて示してくれた信実によって」の意味である。このようにこれがかなり詳しい内容の事柄を看板的に一言で指し示す省略表現であるなら、翻訳としては、通じようと通じまいと、そのまま直訳しておくのがよろしい。逆に、もしもそういう看板的な表現でないとすれば、ますます正確な意味はわからないのだから、訳者はおとなしくそのまま直訳しておかないといけない。

田川建三訳著『新約聖書 訳と註3』ガラティア註2:16より)

 

myrtus77.hatenablog.com 聖書の翻訳に携わった方々は、わたしと比べようもなくヘブライ語ギリシャ語に精通している方々です。それでも、この訳には納得できないと思う箇所があります。けれど、皆さんが読んでいる聖書の翻訳を修正して、日本語の聖書に対する信頼が薄れ、読まなくなってしまっては本末転倒なので、わたしは最大限日本語の聖書の訳を尊重する仕方で説教するようにしています。ですからきょうは、新共同訳の翻訳に沿って理解していこうと思います。

 

夫はこのような考えだったので、冒頭に掲げた説教でも、「それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(22節)と言われていることなのです」と、教会で使っていた聖書の訳のまま語っている。

しかし、その内容は、「イエスがわたしたちに代わって十字架に至るまで神を信じ抜いてくださったのです」と語って、「キリストの信」を言い表している。

 

 

私はこういう説教を聞き続けてきたので、『聴く』の文章を書くような時も、

「『滅ぼし尽くせ』と言われる主の言葉に従う行為はエスの父なる神への徹底した服従を指し示した予型のようなものではないか」と考えたり、「キリストは十字架上でその身を滅ぼし尽くして下さった」と書いたりするのだろうと思う。