風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「アブラムは主を信じた」(創世記15:1~6)

「アブラムは主を信じた」

 2022年5月22日(日) 復活節前第2主日

聖書箇所:創世記  15章1節〜6節

 神は、救いの御業のためご自身の民を召し出されました。それがアブラハムであり、彼の子孫であるイスラエルです。そのアブラハムの物語が創世記12章から始まります。アブラハムは、神の改名によってアブラハムとなりました(創世記17:5)。その前は、アブラムという名前でした。きょうの箇所も彼がまだアブラムだった頃の話です。

 この箇所はいわゆる信仰義認の根拠となる出来事として有名な箇所です。

 主の言葉が幻のうちにアブラムに臨みます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 神はアブラムが恐れていることを知っておられます。人は未来を知ることができません。だから生きることには絶えず不安がつきまといます。アブラムも不安に囚われていました。

 アブラムは言います。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」

 アブラムの不安は、子どもがいないことでした。子どもがいないことで、彼は未来に展望を描くことができませんでした。神の招きに従って歩んできたことに後悔を感じていたかもしれません。

 この時、主の言葉がアブラムに臨みました。かつて旅立つ決心を与えられた時のように、主の言葉がアブラムに臨みました。

 かつて旅立つ決心をしたとき、彼は75歳でした(創世記 12:4)。その時聞いた主の言葉はこうでした。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記 12:1~3)。神は地のすべての人々を祝福する務めのために、アブラムを召し出されました。

 そして今回の御言葉はこうです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」そして、主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われました。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。

 

 なぜアブラムは主を信じたのでしょうか。自分が信仰を持ったときのことを考えてみました。

 わたしはキリストの復活を信じて信仰を持ちました。ですが、これを他の人が納得できるように説明することはできません。

 わたしは使徒言行録8章のステパノの殉教の箇所の説教を聞いて、キリストの復活を信じました。以来、様々な疑いや迷い、つぶやきや後悔をしながら神を信じてきました。そして繰り返し主の真実に立ち帰らせて頂きました。

 

 アブラムの子孫であるユダヤ人は、1900年近く国を失い、流浪の民となりました。しかし消え去ることなく、今も生きています。

 イエス キリストによって異邦人もアブラムの子孫となり、今や数え切れないほど存在しています。神の約束は真実でした。わたしたちの期待や予想を超えて真実でした。

 

 やっと与えられたイサクを献げよと命じられたこともありました。

 エジプトで奴隷だった時代もありました。国が滅ぼされバビロニアで捕囚だった時代もありました。ローマの属国だったときもありました。

 

 救い主が十字架で死ぬなんて誰も考えていませんでした。

 

 新約の書簡の宛先だった教会はローマ以外残っていません。

 神のご計画はわたしたちの期待や予想とは違います。

 

 神のご計画は、アブラムの期待や予想とも違いました。しかし、アブラムは主を信じました。そして、主はこれを彼の義と認められました。

 義というのは関係の正しさを表す言葉です。神の民は神を信じるのが正しい関係なのです。

 

 疑っても、迷っても、つぶやいても、後悔しても大丈夫です。神は、信じることへ立ち帰るように、わたしたちに語りかけ、信じられるまでご自身の真実を注ぎ与えてくださいます。

 

 神の言葉、そして神の真実が、わたしたちを信じる者としてくださるのです。そしてわたしたちは、神との正しい関係の中に入れて頂くのです。

 

 

祈ります。

 天の父なる神さま、わたしたちは自分の予想、思いと異なることに出会うとき、疑いや迷いをもつ信仰の弱い者です。しかし、最後は神さまの導きを信じて、全てを委ねて歩んで行くことの出来ますように、切にお願いいたします。

 この祈りを主イエス・キリストの御名によりましておささげいたします。

アーメン。

 

 

今日、代読して頂いた説教は病気になった後のもので、午後から応援で行っていた近隣の教会の礼拝でした説教のようである。私は車を運転して行っていたので礼拝に出て聞いていたと思うのだが、細部の記憶がないのを考えると、近くのスーパーに行っていたのかもしれない。

 

「わたしはキリストの復活を信じて信仰を持ちました」と語っている。これはよく聞いていたことである。けれど、聖書のどこからの説教を聞いて洗礼を受けようと思ったのか聞いた記憶がなかった。そして聖書のどこの説教だったのだろうと、このところ思っていたのだった。

そのことが語られていた。

そして、「これを他の人が納得できるように説明することはできません」と語っている。

 

以来、様々な疑いや迷い、つぶやきや後悔をしながら神を信じてきました。

そして繰り返し主の真実に立ち帰らせて頂きました。

 

これは、夫の信仰告白にほかならない、と思った。

 

 

 

ジョンがつぶやいた。「怖がりながら、きみは山を登った。怖がりながら、きみは危険に立ちむかった。そして、怖がりながら先へと進むんだ」(『ローワンと魔法の地図』)  

 

 

 

日本柊の実とヒルガオ