風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「驚きの笑い」(創世記21:1~8)

  「驚きの笑い」

 

 2022年7月3日(日) 聖霊降臨日後第4主日

聖書箇所:創世記  21章1節〜8節

 

 21章1節のところ「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われた」と聖書は語ります。

 約束されたこと、さきに語られたことが、創世記18章のところに記されています。

18章で、主は、アブラハムに現れました。このとき主は、三人の人となって、アブラハムのところにやって来られました。アブラハムは、どういうわけか、この三人が主であると気づきました。アブラハムは彼らを迎え「どうか僕(しもべ)のもとを通り過ぎないでください」と言って、彼らをもてなしました。食事の後、三人のうちの一人が「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と告げたと18章10節に書かれています。

 サラは、ひそかに心の中で笑いました。その理由が18章12節に書かれています。「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」。と思ったからでした。その時、主は、アブラハムに言われます。13節と14節「なぜサラは、笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。この言葉を聞いてサラは恐ろしくなり、これを打ち消して答えます15節『わたしは笑いませんでした』。しかし、主は言われます『いや、あなたは確かに笑った』。(18:12~15)

 

 そして、今日の21章で、主は、18章で約束されたとおりサラを顧み、語られたとおり、サラは身ごもり、神がアブラハムに約束されていた時期になって、年老いたアブラハムとの間に男の子を産みました。アブラハムは、この子をイサクと名付けます。

 その後、アブラハムは、神から命じられたように8日目に息子イサクに割礼を施し」ました。「アブラハムは息子イサクが生れた時、百歳であった」と聖書は語ります。そしてサラは言います6節のところ「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑いを共にしてくれるでしょう」。

 この6節のところ、笑いと書かれた後ろの部分に、括弧書きで、イサクと追記がされています。つまり、イサクという名前の意味は「笑い」だということが分かります。

 この笑いは、面白くて笑うとか、楽しくて笑うではなくて、「こんなことが本当にあるのか」という驚きの笑いです。

 ですから、サラは7節のところ「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」と言います。

 サラが、もし誰か全くの他人に、イサクを「この子は、わたしの息子です」と紹介したとしたら、おそらく、なかなか信じてもらえず、サラを知っている者が「養子ではなく、本当にサラが産んだ子です」と証言してようやく信じてもらえる、そんな状況だったと思います。

 

 このように聖書は、信じられないような驚きをわたしたちに告げます。

 神のひとり子が、救い主となるために人となって、しかも幼子となって世に来られた。その救い主がわたしたちの罪を負って十字架に架かられた。さらに3日目に復活された。この救い主を信じる者は罪を赦され、永遠の命に入れられる。神の国に入れられる。

 どれもそんなことが本当にあり得るのかと突っ込みどころが満載です。

 神の約束を聞いたときに、サラが笑ったのと同じように、驚きのあまり、笑うより他にないことばかりです。

 

 わたし自身、理科の教師になろうとしていた高校生の時、神を信じている人をばかにして笑っていました。

 しかし今は、この驚くべき神を信じている者になっています。救いの完成、神の国の到来を信じる者にです。

 皆さんも、この驚くべき神の御業を信じてくださるでしょうか。

 

 聖書は、驚きに満ちています。笑ってしまうほどの驚きに満ちています。

 神の御業は、わたしたちの思いを超えています。

 わたしたちはこの驚くべき神の証人として召されました。

 皆さんが、この驚くべき真の神に出会い、その御業を経験し、たくさん驚いて、たくさん笑ってくださることを願っています。

 

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2017/12/18/104240

元々の説教は、口語訳聖書に基づいています。それを、代読して下さる長老は新共同訳聖書に変換して文章を整えて下さっています。

  

私の母は、札幌にいる時、キリスト教の老人施設に入っていた。そこでは毎朝、牧師達の応援を得て礼拝をしていた。

ある時、母を訪ねて行くと、「今日の牧師さんのお話は可笑しな話やった。歳をとった女の人が子どもを産んだって。生理とかまだあったんやろか?」と言う。

これにどう答えたのだったか、もう覚えていないのだけど、牧師さんには直接なにも言わなかったと思うが、説教者泣かせの聴き手だったことと思う。

「説教とは、語り得ないことを語ることである」と言ったのはカール・バルトだっただろうか?又聞きだから、ちゃんと覚えていないが・・。

 

聞き手の腑に落ちるように語るというのは、本当に難しいことだろうと思う。

 

あぁ、そうだった!米津様も言っていた、「大切なことは言葉にならない」(『海の幽霊』)、と。

 

先週の

ひまわりと

柊の実と

グロリオーサ。

 

 

エス様の真似事して、良いことをして社会が良くなるとか、そんなことで救われるわけではないんです。私たちの救いは神であられる御子イエス・キリストが神として、全人類の罪を背負って私たちの身代わりになって死んで下さった、そのことによって神さまとの交わりが回復した〜(https://drive.google.com/file/d/1Sfu1JcM_f-rbt3bi8EDPec8_YnGFXnRm/view)25:00~

 

なんか、語っておられることが似てる。

そりゃ、そうか?福音を語っておられるんだから。