風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「祝福を携え行く」 (創世記 47:5〜12)

「祝福を携え行く」 創世記 47章5〜12節

 今朝の礼拝では、祝福を持ち運ぶ者とされた恵みについて、創世記から共に聴きたいと思います。

 父ヤコブと息子ヨセフとその兄弟たち、そしてエジプト王ファラオが登場します。

 ヨセフが父ヤコブの目の前から突然に消え、死んだものとされてから二十年以上が経っていました。ヨセフは兄たちから疎まれ、エジプトに売られたのですが、ヤコブはその事情を知りませんでした。

 ヤコブは、もう130歳で、ヨセフは40歳を超えています。カナン地方全体が飢饉に悩まされ、エジプトを頼って出かけた息子たちが、食糧と、迎えの馬車をもって帰ってきて、ヤコブ「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」と言った時、ヤコブ「彼らの言うことが信じられず」「気が遠くなった」と46章に記されています。しかし、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見て、元気を取り戻し、「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言いました。彼にとっては、息子の地位が何であれ、息子が生きていること、ただそれだけで十分ですし、死ぬ前に息子に会いたい、そのことが個人的には旅立ちの目的です。しかし、彼は総勢66人の一家の長であり、その一家を飢え死にさせるわけにはいかない立場なのです。そのためにも、彼はエジプトに行かねばなりません。それにもまして、まず第一にすべきことは、主の御心を尋ねることでした。

 

約束の地に連れ戻す

 46章1節〜4節を読んでみます。

1:イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。 2:その夜、幻の中で神がイスラエルに、「ヤコブヤコブ」と呼びかけた。
彼が、「はい」と答えると、
3:神は言われた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。 4:わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

 一家挙げてエジプトへ旅立つにあたり、最初になしたのは礼拝でした。場所はベエル・シェバ。かつてヤコブは母リベカと共謀して父イサクを騙し、アブラハム以来の祝福をイサクから受け継ぐことに成功しました。しかし、それを知った兄エサウは怒って、父が死んだ暁にはヤコブを殺す決意をします。そこで、ヤコブはベエル・シェバを発って、母の故郷を目指して旅立つのです。彼にしてみれば、いつ帰ることが出来るかも分からぬ異郷への旅立ちです。その時、夢の中に神様が現れて、彼にこう語りかける場面があります。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 46章3節には、「わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」との神さまの約束がヤコブに告げられています。彼らが本来住む地は、約束の地カナンであり、彼らは必ず、「大いなる国民になる」ことが約束されます。

 それは、彼らが神様に祝福された者だからです。彼らが行く所には、その祝福もまた持ち運ばれていくのです。それは、ヨセフにおいても同様です。彼はエジプトに奴隷として売られたり、囚人になったりという苦難を味わいますけれど、そのヨセフを通してポティファルの家にも、エジプトの国にも、神様の祝福が及んで行ったのです。

 神様は、かつてと同じく、ご自身を「父の神」としてはっきりと啓示されました。その上で、エジプトでヤコブ「大いなる国民にする」と約束されました。そして、エジプトに神様もヤコブ「共に下って」いき、「必ず連れ戻す」と約束して下さったのです。しかし、それに続けて「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」ともおっしゃった。つまり、ヤコブはエジプトの地で死ぬのです。しかし、彼は「この地に連れ戻される」と言われる。具体的には50章に記されているように、ヨセフによって遺体の腐敗防止処置を施された上でアブラハム、イサクが葬られているマクペラの洞穴の墓に葬られ、先祖の列に加わることになります。しかし、それは神ご自身が連れ戻して下さったことの徴です。そのように神様は、約束を実現してくださるのだし、ヤコブはその約束を与えられ、そして信じることによってエジプトへと旅立ったのです。

 

信仰を抱いて死んだ

 信仰に生きるとは、この地上では旅人として生きることです。そして、その旅の行き着く先は「天の故郷」です。主イエス・キリストが私たちの罪をあの十字架の死によって贖い、復活によって新しい命を与え、昇天によって天への道を開いて下さったからです。この道は、アブラハム、イサク、ヤコブにも開かれた道なのです。ヘブライ書11章が語る通りです。

 

ファラオとの会見に向けて

 ヤコブは、自分を含めて総勢66名でエジプトに向かいました。そして、エジプトの都にはまだ相当な距離がある牧草地ゴシェンに着く前に、ユダを遣わしてヨセフを呼びました。まずは慎重な打ち合わせが必要だからです。ヨセフは馬車に乗って急いでやって来ました。そして、「父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続け」ました。ヤコブは言います。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることが出来たのだから。」英語のある訳では「ヤコブがヨセフの首を抱いて」となっています。あの放蕩息子を迎えた父のように、失われた息子を二十数年の長い歳月の後に再び得た父の喜びが伝わります。ただ、この時には失われていた息子ヨセフが、父とその一族を救うことになります。「私はもう死んでも良い」という言葉はイエス・キリストをその腕に抱いたシメオンの言葉を思い起こさせます。

 その後、ヨセフとヤコブと兄弟たちは、エジプトの寄留者として、彼らにとって理想的なゴシェンの地で平和に生きるために、綿密な打ち合わせをします。ファラオとの面会で、兄弟たちは、ヨセフの言った通りにし、すべてはヨセフの計画どおりになりました。

 

ヤコブとファラオの会見

 これで実務的なことは終わりました。その上で、ヨセフはおもむろにヤコブとファラオを会わせます。この場の状況を想像することは意味があるのではないかと思います。ヤコブたちは羊飼いです。身なりは貧しいでしょう。動物と共に生きているのですから、そういう臭いもしたでしょう。ひょっとしたら晴れ着を着ていたかもしれませんが、難民として来たのだし、今さら見栄を張ったところで意味はありません。まして、相手は大帝国エジプトに君臨している人物です。場所は、豪華な王宮、それも奥の間だったでしょう。ごく限られた人しか入れない部屋です。そこに古びた履物を履いた老人が入って来る。ヨセフの父親ということだけが、この会見が行われた理由です。

 そこでヤコブは、ファラオに「祝福の言葉を述べた」とあります。

 

ファラオを祝福する難民ヤコブ

 飢饉で困り果て、助けてもらうためにやって来た老人ヤコブが、繁栄した大国エジプトの王を祝福します。これは反対ではないでしょうか。わたしたちは、アブラハムが「祝福の基」と定められ、それがイサクに、さらにヤコブに受け継がれたことを知っています。神さまの選びの民は、神さまの祝福を担っています。この世的には見れば、不幸な人間なのに、難民なのに、エジプトのファラオを「祝福する」。ヤコブイスラエルとはそういう存在です。

 このヤコブ、人間的と言えばあまりに人間的な人物です。いつも従順に神さまに従って生きてきたわけではない。むしろ自らの才覚に頼み、また感情のままに生きてきた、そう言っても良い人物です。でも、生まれる前に既に神に選ばれていた人間であり、(彼の側から言えば)その時々に神に出会い、格闘し、従い、確かに祝福を受けてきた人間です。そのヤコブがエジプトで真っ先にすること、しなければならないこと。それは、エジプトにも神の祝福をもたらすこと、神の祝福を祈ることなのです。「神があなたと共におられます。そのことを信じ、神の導きに従ってください。祝福を受け入れて下さい」と告げ、ファラオに祝福を祈ることです。ヤコブはファラオに対して高慢でも卑屈でもありません。自分の130年の人生を顧みつつ「たとえ苦しみ多い人生であっても、塵から塵に帰る空しい人生ではなく、神と共に生きる人生、祝福の中を生きることが出来ます。」彼の、出会いの挨拶も別れの挨拶も、ただそのことを言っているのです。

 自分の力によって祝福するのではありません。祝福の源は十字架のイエス様です。インマヌエル「神我らと共におられる」と呼ばれたお方です。私たちを罪から救ってくださるお方です。どれほど私たちが罪人であり、私たちの中には祝福できる理由が無くても、このお方が私たちの心の中心にいてくださるとき、祝福は尽きることがないのです。他者を祝福したくない心は、自分だけの祝福を求める、自己中心となります。自分が中心なら、神様を心の中心から追い出してしまいます。この罪から私たちを救ってくださるのも、イエス様の十字架です。祝福をしたくない、という自己中心を赦していただき、他の人の祝福を祈る使命に生きるとき、神様は祝福する者をさらに祝福してくださるのです。

 

アブラハムの子 イエス・キリスト

 私たちの罪のために十字架に架かり私たちに永遠の命を与えるために復活してくださったイエスさまは言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 「地上の人生の終わりまで」ではありません。「世の終わりまで」です。生死を越えて、主イエス・キリストは私たちと共に生き、天の故郷、神の国に導いてくださる。主イエスは、弟子たちと別れる間際に、まさに「別れの挨拶」として、そう告げておられるのです。そこに、アブラハムの子」としての、またただ独りの「神の子」としてのイエス様が、私たちに与えてくださる祝福の言葉があります。

 「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられた」私たちは、キリストと結ばれているが故に、神の子であり、アブラハムの子孫です。時に不幸であると感じようと、いや、どんなに苦しみ多き人生を生きていようと、私たちには決して揺らぐことがない約束が与えられているのです。御子の十字架の死と復活と昇天を通して備えられた約束の地、天の故郷に迎え入れられるという約束です。私たちは、その故郷を目指して歩むアブラハムの子孫です。その歩みを通して、神様の祝福、主イエスが何時でも共にいます祝福を全身で現しつつ生きるのです。

 主イエスは今も私たちと共に生きてくださる神です。その神である主イエスに、今日もひとりひとりが憶えられ、名を呼ばれて、礼拝に招かれています。ここでわたしたちは、赦しと恵みの言葉を聞き、祝福を受けて、その祝福を携え行くことが出来るのです。私たちもまた全世界に祝福をもたらすアブラハムの子孫なのです。

 

飢饉で困り果て、助けてもらうためにやって来た老人ヤコブが、繁栄した大国エジプトの王を祝福します。

神さまの選びの民は、神さまの祝福を担っています。この世的には見れば、不幸な人間なのに、難民なのに、エジプトのファラオを「祝福する」。ヤコブイスラエルとはそういう存在です。

 

苦しみ多い人生だからこそ、神さまの祝福がきらきらと輝いて見える。

何故なら、その苦しみ多い人生にキリストが人となって来て下さり、インマヌエルの神として共に歩んでくださるからだ。

 

祝福の源は十字架のイエス様です。インマヌエル「神我らと共におられる」と呼ばれたお方です。私たちを罪から救ってくださるお方です。

時に不幸であると感じようと、いや、どんなに苦しみ多き人生を生きていようと、私たちには決して揺らぐことがない約束が与えられているのです。御子の十字架の死と復活と昇天を通して備えられた約束の地、天の故郷に迎え入れられるという約束です。私たちは、その故郷を目指して歩むアブラハムの子孫です。その歩みを通して、神様の祝福、主イエスが何時でも共にいます祝福を全身で現しつつ生きるのです。

主イエスは今も私たちと共に生きてくださる神です。その神である主イエスに、今日もひとりひとりが憶えられ、名を呼ばれて、礼拝に招かれています。ここでわたしたちは、赦しと恵みの言葉を聞き、祝福を受けて、その祝福を携え行くことが出来るのです。私たちもまた全世界に祝福をもたらすアブラハムの子孫なのです。

 

 

 

フジバカマを鉄の灰皿に。