風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

エズレルは、「神が植える」という祝福の意味を取り戻す。(説教のためのメモ書きから ホセア書1:4~2:1口語訳)

今から2700年前、紀元前8世紀、北イスラエル王国アッシリア帝国によって滅ぼされようとしている頃、ホセアは預言者として立てられた。そしてホセアは、神の示しによって淫行の妻をめとった。そして3人の子供が生まれた。二人は男の子で、一人は女の子。この子供に対する命名は、結婚それ自体に続くホセアの第2の務めだった。それは、それぞれの子供の名前においてイスラエルの民に対する使信が伝えられていたから。

最初に生まれた男の子は、エズレルと名付けられました。このエズレルという名前自体は「神は種を蒔かれる」あるいは「神は植えられる」という意味の喜ばしい名前です。そしてエズレルは、サマリアガリラヤの山間の美しい町と谷の地名なのですが、その場所の美しさは、そこで生じた出来事によって損なわれてしまっていました。

この地で王妃イゼベルが葡萄園を略奪するためにナボテを殺害させ(1King.21ch.)、王妃イゼベルを含むオムリ王家がエヒウの家によってみな殺しにされ、根絶させられました(1King.9-10chs.)。これはホセアが預言者として働く100年ほど前の出来事です。

このことによって美しい谷と町の名前は、暴力と大量殺人とに結び付けられてしまったのです。子供に対してエズレルと名付けることは、今日子供に対して「アウシュビッツ」とか「南京」と名付けるようなものです。この名を最初の子に付けさせることによって神は、イスラエルの王家に迫りつつある審きを示されました。

二番目の子供は女の子で、やはり異常な名前を与えられました。彼女は、ロルハマ、「憐れまれぬ者」と呼ばれました。

一連のこれらの名前には恐ろしい宣告がある。第一は、イスラエルが王を欠いて生きなければならない未来を宣告したのであり、第二は神の憐れみのない未来を宣告したのであり、第三は神なき未来を宣告したのである。

 

審きの言葉のすぐ後に赦しと祝福の言葉が続く。

これは、神の審きが滅ぼすことを目的になされるのではないことを示す。

神の審きの目的は、神を忘れ、離れて行く者たちを「生ける神の子」とすることである。

しかし、罪の中に沈み込んでしまっている人々は、この言葉の真意を理解できない。最後は、神が救ってくださるのだからいいじゃないか、と思ってしまう。自分の罪が分かっていない。その罪がどれほど大きな、厳しい審きをもたらすか分かっていない。
e.g.今日繁栄していても、繁栄が後に待っていたのだから戦争も良かったじゃないかと言う人はいない。しかし、罪が分からない人は、今の豊かさの中で溺れてしまう。

 

罪の行き着く先は、イエスの十字架。「何故神はお見捨てになるのですか」と叫ばなければならない孤独。誰も耐えることのできない、孤独。それが人には分からない。神の方で赦してくれるとはありがたいじゃないか、と罪の中に留まり続ける。人は、神を侮り、罪を見くびって生きる。

 

神が私たちを導こうとしておられるところは、分裂していた人々が共に集い、ただ一人の主イエス・キリストのもとに和合する人々の多くの罪、血で汚されたエズレルは、本来の意味の「神が植える」という祝福の意味を取り戻す、創造の初め神が地を見て「はなはだ良かった」と言われたあの祝福に帰る。

そこに集う人々は、互いに「神の民」「神の憐れみを受ける者」として交わりを深めることができる。

罪の世にあってただ神の御心だけが我々を愛と交わりへと導く。

 

この一週間もいろいろなことがあった。罪を引きずって生きる私たちが今ここに集っているのは当り前ではない。神の言葉が私たちを招き続けるからキリストにあって共に集っている。あらゆる違いを超えてキリストが私たちを御自身に結び付けて一つとしてくださる。

神の言葉に心を開いていく時、どんな罪を抱えるときも、時代がどれほどひどくなっても、疲れ倒れて起き上がる力がないような時にも、未来に希望を持つことができる。

 

Jn.1:4f.「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」

 

罪の世にあって、この神の言葉だけが神の愛を証し、神の愛だけが時の流れの中で揺ぎないことを証し、私たちを大いなる救い、神の祝福の中へと導く。

 

 

 

うらうらほろほろ花がちる 山頭火

字が下手だから、葉書の絵を活かせない(しょぼん)。

 

花が散って葉桜になろうとしている。



近くの小さな公園の桜は、

ようやく開き始めたと思ったら、

もう今日は満開で、中にはぼとりと落ちているものもあった。