風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「危機を知らせる角笛」(ホセア書8:1~14)

  「危機を知らせる角笛」

 2022年10月16日(日) 聖霊降臨日後第19主日

聖書箇所:ホセア書  8章1節〜14節

 1.

 ホセアはあたかも見張りのごとく、迫りつつある危険を知らせるため、主の家に警報の角笛を吹き鳴らせとの命令を受けています。侵入してくる敵に関する恐るべき知らせを広めること、それが目に見えて明らかでないとき、それは困難な任務ですが、預言者はそのために神に呼び出されたのです。 しかし、神と共にある者にとっては危機の到来は明らかでした。それは神の民、イスラエルが、神の契約を破棄し、神の戒めをないがしろにしたためでした。 悲しいことに、神に対して不誠実になる者は、どんどん偽りの中に陥ってしまいます。イスラエルは神に従っていることを叫んでいます。(2節)「わたしに向かって彼らは叫ぶ。「わが神よ/我々はあなたに従っています」確かにイスラエルは、神に従っているように見えました。しかし、彼らの神への告白、神への応答は、(イザヤ29:13)『この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。』」というようなものでした。神に従っているということは、信心深い言葉で言い表す口先の告白ではありません。その言葉が出来事となり、無からすべてを創り出された真実な神の言葉に対する応答は、口先だけではない、出来事を伴う真実な言葉でなくてはなりません。 けれどもイスラエルは、預言者の再三の言葉にもかかわらず、「恵みを退け」続けました。イスラエル自らがその存在根拠である神との契約を破り(6:7参照)、契約の義務である神の命令を守らず、そのため神の助けを失ってしまったのです。 

 2.

 皆さんは神に従っておられるでしょうか。イスラエルは意図的に自らの指導者を求め、神の指導を拒みました。人々は彼らの真の王が神であることを忘れ、より良い時代を約束する人間の指導者のうちに救いを求めたのです。しかし、神の真実が忘れ去られているときにその指導者が選ばれるなら、解放への道を指し示すものは何もなくなるでしょう。 彼らは人間的な考えから王を選び、そして暗殺し、神が関知しないと言われるとおり、神の意志・認可を全く得ませんでした。 王国は全く人間的政治的な権力手段に成り下がり、それはその権威を自分自身が権力を握ることで持っており、旧約の王国観に即したように、神の選びにより神に対する責任において権威を持つものではありませんでした。 神を無視し、自らが力を持ち、権威を持とうとする人間は、自分の願いをかなえてくれる偶像を作り出します。イスラエルでも、カナンのバアル宗教をまねて生殖における生命力の象徴としての動物の像による神の表現が行われていました。

 ヤラベアム1世という王様は、ベテルとダンの2つの聖所で動物の像を置いており、それは木に金属をかぶせて作られていました。 彼らは目に見えぬ全能の神に対する信仰を、目に見える力のない一塊の金属の前での空虚な礼拝に置き換えてしまいました。彼らの行為は、現代においてもよく見ることのできるものです。子牛は人間の手で作りうるものであり、技術の産物でした。今日において、どの時代にもましてわたしたちは技術に希望を託しています。すなわち、人類は世界に技術によって救済を打ち立てられるだろうという空しい希望を。しかし8:5を換言すれば、神はこう言われています。「わたしはあなたたちの技術を捨てる」。そこには何の救いもないのです。偶像は人の手になるかりそめの物であって、壊れてちりぢりになってしまうものです。しかし、神はこのような人間の罪深い自分勝手な願いから生じた偶像崇拝とは相容れるところなく対立しているのです。この世のものは、神を知り、身を低くし、神と人と共に生きる救いの御業のために仕え、神の栄光を表すとき初めてわたしたちの喜びとなるのです。 この世の力を頼みとするイスラエルを、神は彼らが頼りとした外国の力によって打ち砕かれます。7節では、人間的な力に依存することのむなしさを「風」で、その結果アッシリアによる破滅を招くことを「嵐」で表しています。空しいものの上に築かれたものは、無へと帰し、破滅を自らの内に秘めています。 イスラエルは頼りとしたものによって食い尽くされ、飲まれてしまいます。

 3.

 諸国を右往左往して助力を求め、しかもどこからも相手にされず、見捨てられてしまいます。イスラエルは、だれにも喜ばれない器のようになってしまうのです。 イスラエルは群れで独りいる野ろばのようになっているのです。しかし、自分の姿が分からずにいます。イスラエルはそれでもなお、金で娼婦の偽りの愛を求める者のように、彼らは同盟者たる外国諸国に保護を求めるのです。彼らは神との契約を忘れ、諸外国と契約および盟約を結びました。しかし神の審判の危機に瀕している国家に対して、他のいかなる国々もいかなる同盟者も救いの手を差し出すことはできません。 人類の歴史を通じて、人間の力の究極の表現だと考えられる数々の大帝国が存在しました。アッシリアバビロニア、ローマ、大英帝国アメリカ合衆国ソビエト連邦など。しかし、敵対的なものであれ、友好的なものであれ、どのような帝国の力も人類が切望する最終的な保護と救済を与えることはできません。 ホセアはその言葉を激しく打ちつけ切りつけることによって、神以外の偽りの援助に対する希望をなぎ払っているのです。 

 4.

 イスラエルが造った祭壇よりもはるかに多くの教え(律法)を神はお与えくださいましたが、不信仰のイスラエルにはそれを正しく受け入れることができませんでした。祭儀を行うということが目的となり、自己満足のために祭儀が行われるとき、民は、神の戒めを知っており、それを所有しているにも関わらず、神のことを理解しないようになり、また神の意思表明を自分たちとは無関係なことと感じるようになってしまうのです。

 彼らは多くのいけにえを携えてきて、それを『神の供え物』と呼びます。しかし、イスラエルのいけにえの場所や祭司は違法なものであるので、主にとってみればそれらは単なる『肉』にすぎません。13節にある『肉を食べるのは彼らだ』、これが彼らの主な関心事でした。彼らの目的は罪の赦しを得ることでも、神への感謝を表すことでもなく、食欲を満たし、欲望を満たすことだったのです。 イスラエルの献げるいけにえを拒み、「主は彼らを喜ばれない」のです。罪の赦しを得て、神に再び罪を覚えないようにしていただく犠牲が、かえって「主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる」ものとなるのです。何と皮肉なことでしょうか。彼らはついにはエジプトの奴隷の状態へと帰ることになってしまいました。 

 5. 

 神の民は造り主を忘れて、人の力・物質の力に信頼を置くようになりました。神はそれらを滅ぼして、神の力強さと人や物の無力を教えようとしておられます。 宮殿も城もイスラエルにとって、自分たちが神の被造物であることを忘れ、自己の世界で自らを神としようとする、人間の誇りと高ぶりを表現するものでした(創世記11:1-9参照)。しかし人間はどんなことをしても、神の前から逃げ去ることはできないのです。人間であるとは、ホセアにとっては創造者に依存して生きることでありました(創世記3:11参照)。彼はその時代の人間の意識の内に神を忘れた様を見ていたのです。このような人間の高ぶりと神との間にある対立と、そして被造物のその創造者に対する義務を知らないで生きているために、根本的に「神無し」である文化に迫っている破滅とが、示されているのです。(14節) 

イスラエルはその造り主を忘れた」自分たちの造り主を忘れた民は、その造り主が常に与えてくれたもの、すなわち保護と救済を他のところに探し求めました。彼らは数多くの誤った道をたどって、失ったものを追いかけました。ある道は彼らを造り主からさらに遠く引き離し、ある道は彼らをさらに悲惨な方へと導きました。しかし躓きは内部に存在したのです。 

 6.

 わたしたちは今一度、神の前で自分に問いかけてみなければなりません。わたしたちはどんな幸せを思い描いて、どんな人生を求めて生きているのでしょうか。 神はわたしたちに問いかけられます。(5節)「いつまで清くなりえないのか。」と。神はわたしたちの答えを待っておられるのです。

 

 ここでもう一度、○○牧師の説教代読で聴いたホセア書の聖書箇所を読みたいと思います。まず、旧約聖書1409ページホセア書6章1節~3節です 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。 二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」

 神のもとには真の癒しがあり、命があります。神はこの御言葉をキリストによって成就されました。キリストはまさしくわたしたちに先立って三日目に甦られたのです。神のもとへ立ち返った者、キリストを信じた者には、甦りの命が与えられます。そして神のもとで、罪ゆえに傷つき傷つける命ではなく、愛し合い、喜び合う命が満ちあふれてくるのです。

  そしてもう1カ所、ホセア書3章1節、旧約聖書1406ページです。「 主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」、「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」と主は私たちにむけておっしゃいます。

 主が私たちを滅ぼすこと。これが主の目的なのではありません。私たちは、どのようなときどのような状態の時であったとしても主によって愛され、生かされ、立ち上がらせてくださっているものなのです。ですから、主によって私たち自身も立ちかえり、感謝と讃美の角笛をならしていけるようになっていきたいのです。そして主によってわたしたち自身が、この世に対して危機の角笛も吹き鳴らしていくものとされている。このことも私たちは深くおぼえておきたいのです。

 

祈り

父なる神様。わたしたちの危機を知らせる角笛が鳴り響いているのに、自分の思いを追い求めるわたしたちはその音を聞くことがありません。わたしたちの落ちつかない揺れ動く思いをあなたの前で静めなければ、あなたの声を聞くことができません。どうかわたしたちがあなたの声を聞くことができますように。あなたの声を聞き流してしまうことがありませんように。わたしたちの救いのためにすべてのことを配慮してくださるあなたが、わたしたちの救いのために語られた御言葉からあなたの御旨を知ることができますように。どうぞわたしたちを主イエスキリストによって立ち返らせてください。 そして私たち自身も主と共にあって、危機の角笛を吹き鳴らしていけるものとさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

今日の説教は厳しすぎると心配していたら、長老が、「ここでもう一度、○○牧師の説教代読で聴いたホセア書の聖書箇所を読みたいと思います」と言って、以下を補って語って下さった。

もう、この説教は代読して下さった長老のものだ、と思った。

 

myrtus77.hatenablog.com

 

讃美歌も、元々の説教の欠けを補うために、子ども讃美歌85番を選んで下さっていた。

こどもさんびか85番

1 イェスのになった十字架は命の木となり よい実をむすぶ。

4 さばきの日にも みめぐみで救いをくださる神をたたえよう

5 世は破滅へと追い立てる。「なぜ迷うのか?」と天はとわれる。

    キリエ・エレイソン、

    死のとりこから よみがえらせてください。

ほんとうに、感謝に堪えない。

 

 

元々の説教原稿はこちら↓

fruktoj-jahurto.hatenablog.com