イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。(士師記19:1)
「イスラエルに王がいなかったそのころ」と始まる士師記19章から最後までの部分を読んでいると、神の御心はどこにあるのだろうか?と考えずにはいられない。
家の主人は彼らのところに出て行って言った。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたしの家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思いどおりにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。」しかし、人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。
彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、「起きなさい。出かけよう」と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。これを見た者は皆言った。「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」(士師記19:23〜30)
このように惨たらしい場面が多く、神の御心が捉えきれなかったためか、夫は、「自分にはまだ語れない」と言って、ヨシュア記と士師記を飛ばしたのだった。
ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々がミツパに上って来たことを伝え聞いた。イスラエルの人々が、「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」と言ったので、殺された女の夫であるレビ人はこう答えた。「ベニヤミンのギブアに来て、わたしは側女と共に宿をとっておりました。ギブアの首長たちがわたしに向かって来て、夜、わたしの泊まった家を取り囲み、わたしを殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。わたしは側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。彼らがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです。あなたたちイスラエルのすべての人々よ。ここで話し合って協議していただきたい。」すべての民は一人の人のように立ち上がり、こう言った。「我々はだれも自分の天幕に帰らず、だれも家に戻らない。 我々が今、ギブアに対してなすべきことはこうだ。ギブアに対してまずくじを引いて攻め上ろう。イスラエル全部族から百人につき十人、従って千人なら百人、一万人いれば千人を選んで糧食を調達させ、部隊をベニヤミンのギブアに行かせ、ベニヤミンがイスラエルの中で行ったすべての非道を制裁しよう。」(士師記20:3〜10)
神はこのようなことを許されたのだろうか?と思いながら読み進むと、20章18節でようやく神の声が聞こえてくる。
一方、イスラエルの人も、ベニヤミンを除いて数を調べると、剣を携えた兵士四十万で、彼らは皆、軍人であった。彼らは立ち上がってベテルに上った。イスラエルの人々は神に問うて言った。「我々のうち誰が最初に上って行ってベニヤミンと戦うべきでしょうか。」主は、「ユダが最初だ」と言われた。(20:17,18)
そして23節、28節、
イスラエルの人々は主の御前に上って、夕方まで泣き続け、主に問うて言った。「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えねばなりませんか。」しかし、主は言われた。「彼らに向かって攻め上れ。」(20:23)
イスラエルの人々は言った。「兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す。」(20:28)
20章の最後はこうである。
この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。六百人が荒れ野のリモンの岩場に逃げて、四か月、そこリモンの岩場にとどまった。一方、イスラエル人はベニヤミンの人々のところに戻って来て、町の男たちから家畜まで、見つけしだい、残らず彼らを剣で撃ち、どの町にも見つけしだい火を放った。(20:46〜48)
ベニヤミン族のなしたことは神の御心ではなく、神はベニヤミンの極悪非道を許してはおられない、ということだ。
そして士師記の終わり、21章の最後にはこう記されている。
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(21:25)
この後、イスラエルの民は王を立てることを願ってサムエルに求める。
イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」(サムエル記上8:4~9)
目に見える人間を王として立てることを願うところに、罪の中に生きる人間の根元的な弱さを思う。私たちは目に見えるものを求めるのだ。見えない神を信じて生きることは、私たちには出来ない!
それ故、キリストは人となってこの世に来られた。
まぁ、カトリックなんかも聖職者の少年への性加害なんかも取り沙汰されていたり、免罪符なんていう負の歴史も持ってるし、長い歴史の中で変容してしまうということはあると思うけれど、この団体は最初から詐欺をするために作られた団体としか思えない。 https://t.co/MsxRz8Ixsk
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年9月16日
英国がローマカトリックから離れて英国国教会となったのは、カトリックが王の離婚を認めなかったからだというが、宗教組織も自分たちの都合でどうとでもなるってことだ。その果てのチャールズ氏とカミラさん。 https://t.co/xcNqZZM0jP
— 猫祐物語 (@syodainekosuke) 2022年9月16日