風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の恵みと神の愛によって満たされる」(ホセア書10:9~15)

 「神の恵みと神の愛によって満たされる」

 

  2023年8月13日(日) 聖霊降臨節後第11主日

聖書箇所:ホセア書  10章9節~15節

 

 今日は、旧約聖書のホセア書を読み解きたいと思います。

 まずは、9節~10節。「イスラエルよ、ギブアの日々以来 お前は罪を犯し続けている。罪にとどまり、背く者らに ギブアで戦いが襲いかからないだろうか。いや、わたしは必ず彼らを懲らしめる。諸国民は彼らに対して結集し二つの悪のゆえに彼らを捕らえる。」

 ギブアというのは、エルサレムの北5kmのところにあるベニヤミン部族の町の名前です。ギブアで犯された罪とは、旅のレビ人がギブアで宿泊した折り、ギブアの町の人々がレビ人がつれていた側女を辱め、なぶりものにし、死なせてしまったという事件によって、ギブアと全イスラエルが争うことになり、ギブアが滅ぼされたことを指しています。

 イスラエルはその後、北と南に分裂することになりました。「ギブアの日々以来お前は罪を犯し続けている」とは、イスラエルが北と南に分裂し、同じ神の民が、神の祝福を受けて創造された民同士が、争い、血を流すようなことをし合っているということを指しています。

 

 聖書では、神を離れて生きることを指して罪と呼んでいますが、人は神を離れるとき、一人一人が神になろうとし、互いに争い、傷つけ合うのです。神のように自分の思い通りに振る舞おうとして、お互いにぶつかり、争い、傷つけ合うのです。そのような罪にとどまり、神に背き、神の民が争い、血を流し続けるとき、「ギブアで戦いが襲いかかる」のです。ギブアに対して全イスラエルが敵対したように、罪の中にとどまり、神に背く者たちに神ご自身が敵対し、イスラエルの周囲の諸国民を結集し、神がイスラエルを懲らしめられるのです。 イスラエルが裁かれる原因となった「二つの悪」とは、偶像礼拝と周囲の大国への信頼を指しています。

 偶像礼拝とは、唯一の真の神以外の人間の創り出した神をあがめることです。

 当時はパレスチナの住民が礼拝していた豊作をもたらす神バアルに対する礼拝が盛んに行われていました。人間が創り出す偶像は、必ず何らかの豊かさを与えるものとしてまつられます。ふつう日本では、「御利益がある」という言い方がされます。そして偶像は、敬うという行為に対して、それはしばしばお賽銭とかお布施というようにお金を要求しますが、それに対して御利益を与えるという関係を創り出します。これは自動販売機とわたしたちの関係と何も変わりません。自分の求める御利益が置いてある偶像を創り出し、取引を行うのです。本当に御利益があるかどうかはわたしは知りません。偶像をあがめるというのは、自動販売機を神としてあがめることと何も変わりません。

 

 聖書がわたしたちに示す唯一の真の神は、わたしたちが求めるより先にわたしたちを愛し、わたしたちを罪から救い出してくださる神です。取引関係を求めるのではなく、愛による信頼と、共に生きる関係を求め、創り出してくださる神なのです。聖書が示す神とわたしたちとの関係は、愛と信頼による父と子という関係なのです。家族なのです。

 家庭において、父親が自動販売機になってしまったとしたらその家庭は悲惨なものです。ただお金だけを家庭に運び、求めるものを買い与えてくれる存在でしかないとしたら、そこに愛情とか信頼とか共に生きるということが存在しないとしたら、それはものすごい不幸だと言わざるを得ないでしょう。唯一の真なる神を離れ、自分の欲望を注ぐ対象として偶像を創り出し、そして礼拝しているということは、実に父を自動販売機にしてしまっている家庭と同じなのです。

 

 神を離れ、神に背き、偶像を作り上げ、礼拝している人間は、本当に頼るべき存在を失ってしまいました。ですから、ひたすら求めるこの世の豊かさを守るために、人はこの世の力に頼らざるを得なくなるのです。イスラエルは、エジプトやアッシリアといった大国の力を頼り、大国に従わなければやっていけなくなってしまいました。イスラエルがエジプトやアッシリアに求めたもの、それは軍事力でした。つまり、力です。神を離れ、背いた人間が求めるもの、それは富と力です。罪の中にある人間は、富と力が幸せをもたらしてくれると信じて、富と力に縛られて生きていきます。多くの人は、それだけでは幸せにはなれないと薄々感じています。けれども、神のもとへ帰らずにもがき、罪の世でさまよっているのです。

 

 11節~12節。「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛 わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いでくださるように。」

 

 神と共に生きる民の祝福された姿が描かれています。エフライムもユダもヤコブイスラエルを指し示す名前です。働くこと、生きることが恵みをもたらします。恵みを注いでくださる神と共に生きているからです。

 

 イスラエルは、この恵みの中に選ばれて入れられたのです。しかし、彼らはそこから離れてしまいました。13節~15節。「ところがお前たちは悪を耕し 不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。どよめきがお前の民に向かって起こり 砦はすべて破壊される。それはシャルマンがベト・アルベルを破壊し 母も子らも打ち殺したあの戦の日のようである。ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。」

 何故わたしたちはこの掛け替えのない人生において悪を耕してしまうのでしょうか。何故不正を刈り取り、欺きの実を食べてしまうのでしょうか。それは、自分の力と勇士の数を頼りとするからです。神を離れて、神なくして生きていける自分の力を求めるからです。15節にある「ベテル」という言葉は、ヘブライ語で「神の家」という意味の言葉です。神の家において、神ではなく、人が頼りとされるとき、その誤った望みは神によって断たれるのです。砦はすべて破壊され、夜明けと共にイスラエルの王は断たれるのです。

 

 11節~12節。「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛 わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け 愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いでくださるように。」

 神はその民に脱穀させることを好まれたのです。それは収穫の喜び。生きてきたこと、働いてきたこと、それに対する喜びの報いを与えることです。

 神の民のなす業、それは恵みの業をもたらす種を蒔くこと。愛の実りを刈り入れること。今から始まる新しい人生を耕すこと、それはさらに恵みの業をもたらす種を蒔き、愛の実りを刈り入れること。これからの人生のすべてが神の恵みと神の愛によって満たされることなのです。

 

 主を求める時が来たのです。今、来たのです。取引の関係ではなく、愛と信頼の結びつきの中で神の恵みと神の愛に満たされる時が、今、来ているのです。

 

 どうか、主がみなさん一人一人のところに訪れてくださり、恵みの雨を注いでくださいますように。

 

 

 祈ります。

 

父なる神様。 御言葉を感謝いたします。あなたはこの日も、わたしたちに対する祝福の思いを明らかにしてくださいました。あなたはわたしたちをあなたの恵みと愛とで満たそうとしていてくださいます。あなたに造られたこと、命を与えられたこと、生きてきたこと、今生きていることを喜びにしようとしておられます。どうか、わたしたち一人一人があなたのこの思いを受け取ることができますように。いつもあなたと共におり、あなたを喜ぶ者であることができますように。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

  アーメン

 

 

唐藤空木と檜扇と、葉っぱが良い香りのする藤袴と。

真ん中のが、フジバカマ。