風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

前言を翻される神

 「裏切る者を招く主」

 

 2021年9月26日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書  22章21節〜23節

 

 今日も最後の晩餐の場面から、み言葉を聴き取りたいと思います。

 最後の晩餐の最中に、イエスはこの場に自分を裏切る者がいることを告げます。 

 どうしてイエスを裏切る者がこの場にいるのでしょうか。

 それはイエスが自分を裏切る者を招かれたからに他なりません。イエスの救いへの招きは裏切る者にさえも与えられます。

 裏切るような罪を持っているとしても招かれるのです。始めから招かれていない者など一人もいません。問題は、一人一人が招きに応えるかどうかなのです。

 

 ここで、イエスが裏切る者がいることを話されたのは、イエスが裏切ることを知っておられるのに、なお、その者をこの最後の晩餐に招かれたことに気づかせるためです。
 その者が裏切ることは、イエスだけが知っておられます。23節に「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」 とあるように、弟子たちは、誰が裏切るのかは全く分かっていません。

 イエスは、神が定められたとおり、ご自身の命を罪人のためにお献げになります。しかし、だからといって、イエスを裏切ることが正当化されるわけではありません。イエスを裏切るその人は、22節で述べられているように、「不幸」なのです。

 

 エゼキエル書33章の10節と11節にはこう書かれています。「 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(33:10, 11)

 続く14節から16節では「また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、 すなわちその悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。」(33:14~16)とあります。

 さらに続く19節には「また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる」(33:19) とあります。

 

 神は、「悪人が悪事のために死ぬのは喜ばない」と言われます。「悪人が、その道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と言われます。神が「お前は必ず死ぬ」と言ったとしても、それは悪人に悔い改めを求めるためのものです。変えることのできない裁きの宣言では、ありません。今の状態が死に向かっていることを告げて、そこから悔い改めて、神に立ち帰るように、神が迫っておられるのです。

 ですから、悪人が悔い改めて、その罪を離れて正義と惠みの業を行うならば、「彼は必ず生きる。決して死ぬことはない」と、神は、自ら語られた「お前は必ず死ぬ」という言葉を翻して、生きる道を開かれるのです。

 神が求めておられること、神が願っておられることは、悔い改めて神に立ち帰ることであり、神と共に生きることなのです。

 

全文は以下から、

https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/09/26/202707

 

26日の礼拝で代読して頂いた説教はユダについて語られた部分が中心的な内容だったのだが、私は先ず、神が、「自ら語られた「お前は必ず死ぬ」という言葉を翻」す、という言葉に注目したのだった。

どうして「翻す」のか?

私たちの「生きる道を開かれる」ためだ。

 

私はしばらく前に、ある場で、「神に似せて造られた私たちは、そしてその神を信じていると言っている私たちは、自分の発した言葉に責任を持たなくてはならないのだと思うのです」と語ったのだった。

しかし、神はご自分の語られた言葉を翻される御方なのだ。「愛」のために!

 

このことを物語っているのが、ヨナ書だ。

 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(ヨナ書3:10  新共同訳)

 

 

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