風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

一体、誰がこの神の命令を聴くことができるのでしょうか。(ホセア書3:1~5からの説教)

 「神の愛」

 

 2022年7月24日(日) 聖霊降臨日後第7主日

聖書箇所:ホセア書  3章1節〜5節

 

 今日の聖書の箇所、3章1節にある「淫行の女」とは、ゴメルという女性のことをさしています。ゴメルは、異教の神バアル神殿において神殿娼婦をしていました。

 預言者ホセアは、神の命令により、そのゴメルを妻に受け入れました。ホセアは、ゴメルとの間に息子2人と娘1人与えられています。その後のホセアの家族の様子は記されていません。しかし、きょうの聖書箇所を読みますと、どうやらゴメルは家族を捨てて、再び、もとの神殿娼婦に戻ってしまったようです。これが結婚からどれくらいの月日が経ってのことなのか、聖書は何も記しておりません。ホセアは、3人の子どもを抱えた離婚経験者として描かれています。

 そのホセアに、神はまたも語られます。「行け、姦淫する女を愛せよ」。

 何と言うことを神は語られるのでしょうか。

 そもそも最初の1章で「淫行の女をめとり受け入れよ」と語られたことからして、信じ難いことなのに、家族を捨てて、神殿娼婦に戻っていった女のもとに「行け、姦淫する女を愛せよ」、とはどういうことでしょうか。 

 

 しかも今回は、ゴメルがどうやらバアル神殿の所有物、つまり奴隷となっていたようです。何らかの事情でゴメルは、バアル神殿に奴隷として買い取られ、そこで豊饒儀礼(ほうじょうぎれい)としての性的な行為に関わっていたのでしょう。

 ホセアは必要な代金を支払って彼女を贖い(あがない)取らなければなりませんでした。ホセアは、奴隷であったゴメルを買い戻すために必要な分を支払いました。神の言葉通り「もう一度彼女を愛する」ために彼女を自分のもとに取り戻したのです。

 

 聖書において神と人との関係は、結婚に例えられます。

 神が、今回もこのホセアに対して語られた根拠は、「イスラエルの民が自分たちを愛し、導いてきてくださった神を裏切り、他の神々を愛するようになったにも関わらず、神は変わらずにイスラエルの民を愛していてくださること」。

 これが、唯一の根拠なのです。

 1節「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 

 ここで神は、「愛する」という言葉を4回使われます。

 イスラエルの人々が他の神々のもとへ向かい、偶像を愛すること。

 そのようなことにも関わらず主はイスラエルの民を愛すること。

 また、偶像を礼拝する者たちが豊饒儀礼としての淫行を捧げるために愛すること。

 そのようなことにも関わらず、「神の愛」に倣ってホセアが姦淫を行うゴメルを愛すること。

 この相対立する2つの愛が語られているのです。

 片や、姦通の愛、不義の愛であり、自己中心的で、破壊的な愛。片や、相手のために自分を差し出し、自らが痛みを負い、相手を癒そうとする愛。

 この2つの正反対の愛が、あらわになった罪の現実の中で対峙しているのです。

 

 本来、神の律法によれば、姦淫は十戒で禁じられており(出エ20:14)、その刑罰は石をもって打ち殺すことでした(申.22:20、エゼ.16:38-40、23:45-47、ヨハネ.8:5)。

 そこまで厳しい戒めを与えておいて、何故、神はホセアにこのように言われるのでしょうか。 

 

 神と私たちの関係の回復が「救い」そのものであるように、救いは、私たちお互いの人間関係をも回復するのです。

 

 イエス・キリストは、神の戒めを2つに要約して「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことだと言われました。

 

 神は、誰もが「そこまでする必要はない」と考えることをホセアに言われました。それによって、御自身の民に対する愛の深さをお示しになられたのです。破れたお互いの関係を、人が、負目ある人のところにまで行って愛することで、神は破れた関係を回復するただ一つの道、「神の愛」を示しておられるのです。

 律法は、神の恵みの中にいる人がそこに留まり、神の祝福の内に生きるための恵みの戒めです。

 神は、恵みの中からさまよい出た人を律法によって審き、滅ぼしてしまう御心ではなく、律法を超えた御自身の愛でもって自ら痛みを負いつつ、変わることのない愛、あきらめなどで冷えてしまうことのない愛で私たちを救ってくださるのです。

 

 このホセアに語られた神の言葉は、今、私たちに対しても語られています。イエスは弟子たちに祈りを教えられた時(ルカ.11:4)、「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負目のある人を皆赦しますから」と祈りなさいと教えられました。

 私たちは、誰しも自分の正当性を主張したいのです。私たちは皆、自分なりに精一杯正しいことをしているのです。しかし、罪の中にある私たちは、自分なりに正しいことをしている善意が必ずしもうまく伝わりません。うまく伝わらないどころか、その善意が人を傷つけてしまう。善意であってもうまく行かないところに加えて、しばしば疲れ、苛立ち、怒ってしまうのです。

 私たちは自分の正当性を、「自分はこんなに一所懸命やっているのに」と主張したいし、認めてもらいたい。それなのに、神の言われることは、「もう一度あなたが行って、愛しなさい」なのです。

 一体、誰がこの神の言葉を受け止めることができるのでしょうか。一体誰が裏切られ、傷ついているのにもう一度行って愛することができるのでしょうか。

 

 それは、神の前で自分の罪の本当の姿を知り、その上で「私はあなたを赦す。私はあなたを愛している」と、なお言われる「神の愛」を知った者だけが聴くことができるのです。

 「神の愛」を知り、「神の愛」を受けている者だけが、神と共に高ぶることなく、痛みを引き受けることができるのです。

 そして、「神の愛」によって回復されたお互いの交わりを心から喜ぶことができるのです。 

 

 買い戻されたゴメルは静かなところに連れ戻され、本当の愛に気づく環境に置かれました。神は愛する者を罪の誘惑の中から救い出して、真実の愛に気づかせるためにこれまで神を礼拝するのに用いてきたもの、犠牲の捧げ物や祭司が着用する上着エポデといったものさえも捨て去って、神と向い合う関係を作り出されました。

 そして罪人は、その静けさの中で、神と向い合う中で、神とその恵みの深さに初めて気づくのです。何が真実であって、何がなくてはならないものなのかに気づく時が、神によって備えられるのです。

 その一つが、この礼拝の時です。

 神によってこの世から救い出され、静かに神とだけ向い合うことが許されている時、神とその愛に気づくまで静まることが許されている時、それが礼拝です。

 

 私たちも、実はホセアと同じ立場にいるだけでなく、ゴメルと同じ立場に立ってしまいます。神のもとからしばしば逃走を試みます。だから、神は週ごとに私たちを罪の世から救い出して、神御自身と静かに向い合う時を与えてくださるのです。

 罪ある私たちが本来受け入れることのできない神の言葉を心開いて聴き、神の救いの御業に与って、神との、そしてお互いの平和を創り出して行くために、神は今、神御自身とだけ向い合う、この静かな礼拝の時を与えていてくださるのです。

 

 神は、私たちにこの時を与えるために、御子の命を差し出されました。

 

 御自身の独り子の命を支払ってまでして、私たちを自己中心で破壊的な偽りの愛から救い出されました。

 私たちは、静まって何が本当の愛で、誰が真実に私たちを愛していてくださるのかを知る時、傷つき傷つける愛にではなく、「神の愛」に生きることができるのです。

 

 最後にヨハネの手紙 Ⅰ 4:9-11をお読みし、終わりたいと思います。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、「神の愛」がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」 

 

 

祈ります

父なる神様。私たちを愛し、この礼拝の時を与えていてくださいますことを感謝します。どうか私たちが、この恵みの一時、心静かにしてあなたと向い合うことができますように。あなたの御霊によって信仰の目が開かれ、あなたから受けている量り知ることのできない愛の豊かさに気づくことができますように。そして、あなたの御言葉に心開き、あなたと共に歩み行くことができますようお導きください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

きちんと完成されていない古い説教原稿を代読して頂きました。
最初の出だしを、長老が、分かりやすく補って、整えて読んで下さいました。
本当に感謝です。
これから、このような説教で礼拝を守っていく予定です。

 

 

主イエスの十字架と復活の御業は片手の萎えた人に対する癒しと比べて遥かに大きく素晴らしい恵みの御業です。この十字架の死からの復活という奇跡の御業によって、私たちの命を救うために、真の罪の赦しと永遠の命を約束され、そして「安息日の主」であることを示されているのであります。私たちは安息日である今日、そのイエス・キリストに招かれ、恵みを与えられたのであります。https://shinguchurch.blogspot.com/2022/07/7248-316.html

 

振り返ると・・、

今日は、

 

ねこじゃらし。