風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

牧会のための覚書3(赤星進=著『心の病気と福音 下』から)追記あり

四 神経症の治療について

(3)精神科カウンセリング(精神療法)

 (略)そのすべてに共通していることは、治療者は患者さんを直接に助けるのではなくて、患者さんが自分で自分を助けられるように助けてあげるということであります。このことは、いわゆる支持的精神療法や説得的精神療法についても同様です。患者さんが自分で自分を助けられるようになるためには、患者さんが自分自身をよく理解し、自分の病的に歪み偏った性格を正常な範囲にまでコントロールする努力をしなければなりません。たとえば、自分はまじめだが、それが病的に歪み偏って「くそまじめ」になっていることを理解できたら、その「くそ」をとって正常な範囲の「まじめ」にまでコントロールする努力をすることです。これを自己理解・自己洞察の努力と言います。

 この努力は、机の前で観念的に考えることによってなされることではなく、日常の具体的な人々との交わりの中でなされることであります。治療者との治療関係の交わりの中で、親との交わりの中で、友人との交わりの中で、そしてまた不特定多数の人々との交わりの中で、自己理解と自己洞察の努力は実を結んでゆくのです。

 

 (略)

 

 ところで薬物療法による症状の軽快は、比較的短期間に起こりますが、精神科カウンセリングによる自己理解・自己洞察は、本人が自分で努力して体得しなければならず、治療者は患者さんが自分でそれを体得できるように助けるだけですから、相当に長い期間を必要とします。何年もかかることが稀ではありません。(略)

 さて、神経症の患者さんのための精神科カウンセリング(精神療法)は、分裂病躁うつ病の患者さんへのそれとは変わったものになってきます。前に述べましたように、分裂病の患者さんへのカウンセリングにおいては、治療者の方から太陽のように温かいやさしい言葉をかけて交わりをもってあげ、患者さんが安心して治療者との交わりをもてるようにしてあげることが肝要です。(略)このように分裂病の患者さんへの精神科カウンセリングにおいては、患者さんが人と交われるようにサポートする支持療法的なアプローチがもっとも大事であるということができます。

 躁うつ病の患者さんへのカウンセリングにおいても、やさしく温かく接することが基本的に大事ですが、分裂病の患者さんの場合と違うのは、躁うつ病の患者さんたちは甘えを身につけているので、はじめから温かい人間的な接触をもつことが容易であることです。(略)そのためには治療者が、自分のことを弱くて愚かで不完全でまったくだめだと嫌っている患者さんを、ありのままに受け入れてあげ、「いい子」になれなくても自分を評価し受け入れて交わりをもってくれる人がいるということを患者さんが体験できるように助けてあげなければなりません。そのためには治療者自身が、弱く愚かで罪深い、不完全な自分を受け入れ、赦し、愛してくださる方(人格)との交わりに支えられていることが大事になってきます。

 

(略)

 

 神経症の場合には、人に甘えることも一応身につけていますし、また人との交わりの中で自分のありのままの気持ちを押し殺すことなく、自然に人と交わることも身についています。(略)ですから、分裂病躁うつ病の人たちと根本的に違うところは何かと言いますと、その人には人との交わりをちゃんと保つことのできる自我というものがあるのだと言うことです。神経症という病気は、自我の一部分が病的になっているのであって、その他の大部分は正常であるのですから、その大部分の正常な自我が、自分の一部分の病的な歪みや偏りを苦痛に感じ、自分から治療を求めて来ることができるのです。(略)このことから分かりますように、神経症の場合には治療者と対等にやり取りができる自我というものがあります。ですから、分裂病躁うつ病の患者さんに接する場合とは自然と変わってくることがわかります。

 (略)そういう時に、神経症の場合には、さきほどの奥さんがなさったように、愛情と信頼の中でつっぱねなければいけないのです。私はこう言いました。「自分で考えなさい」と。これが神経症の患者さんへの精神科カウンセリングの中で言う厳しさなのです。この場合、必ず愛情と信頼を伴っていなければ厳しさとしての働きをしないのです。(略)「本当に厳しいんですね」と患者さんが分かる厳しさを、患者さん自身が乗り越えていくのを助けるような厳しさが、治療者に求められてくるのです。

 (略)神経症の患者さんたちは、この厳しさに耐えかねて、神経症という病気の中に逃げこんでしまうのです。クレッチマーは、ヒステリーについて、疾病への逃避の意図を重視していますが、まったく同感であります。この「疾病への逃避の意図」は、患者自身は意識していない無意識的なものであります。患者は自分の中にある「疾病への意志」を意識していないのであり、無意識的に「疾病への逃避」をしているのであります。「疾病への意志」などというものが、私たちの心の中にあるということはまことに不思議なことですが、あるのです。キリストがベテスダの池で病人をいやされた時に、その人に「良くなりたいのか」と言われていますが、そのことは、キリストがその人の心の中にある無意識の「疾病への意志」を見抜いておられたことを示しているのではないかと思われます。

 

(略)

 

 このような「甘えへのしがみつき」から脱却して自立することは、患者さんにとってもまことに「厳しい」ことですが、それを助ける治療者にも、毅然とした「厳しさ」が求められることになります。前にも話しましたように、精神分析療法には、はじめからそのような「厳しさ」があり、そのためにフロイド以来精神分析療法は、分裂病の患者さんには禁じられていました。(赤星進=著『心の病気と福音 下』p138~148)

 

五 神経症の宗教精神病理学的現象と伝道

(略)

 このような神経症の人々への伝道において、心得なければいけない第一のことは、十字架の救いの中にある、神の義の厳しさを分からせるように伝道することであると思います。(略)…神の愛はキリストの十字架の死による救いの中で、神の義とともにあるのであります。この神の義の厳しさをよく分からせるような伝道が大事であると思います。

 私たちは、神の愛に慣れて、神に甘えて、自分の悪と不正を大目にみてもらうことを願いがちですが、神経症の人々は、特にその傾向が大きいのです。「まちがってはいけない神は侮られるようなかたではない」(ガラテヤ人への手紙六・七)ことをよく分からせるように伝道することが、大事であると思います。…。しかし、決して律法主義的に厳しくするのではなくキリストの十字架の救い中に神の愛とともにある神の義の厳しさを伝道することが大事であると思います。そうすることによって、神経症の人々も自分の不正と不義がキリストを十字架につけることになることを思い、その罪を分からせられて悔改め、十字架の救いを求め、与えられるようになるのではないでしょうか。。そのようにして十字架の救いを与えられる時に、その人の自我はキリストの十字架の死と共に葬られ、新しい生命に生きるようになり、復活の主キリストとの交わりを与えられるのであります。

 神経症の人々への伝道において、以上に述べたように、神の義の厳しさを分からせるようにするためには、伝道者である牧師さんたちや信徒の方々に、精神科カウンセリング(精神療法)の治療者に求められた毅然としたきびしさが、同じように求められると思います。(赤星進=著『心の病気と福音』p160~161)

 

赤星進=著『心の病気と福音』(ヨルダン社は1990年1月20日発行のものですので、「分裂病」などの呼び名も古いままです。けれどキリスト者であり精神科医である著者の視点は、牧会に携わる際の大きな助けとなると思われます。

 

人間のやることはすべて不完全で、どんなにすばらしい治療法でも、…、アンビバレンスというものは避け得ないし、不完全であるのだということ、このこともやはりお話しておかなくてはいけないと思います。そうでないとまるで精神療法やカウンセリングですべてが解決されてしまうのではないかという錯覚を持ちやすいのです。しかし人間の業である限り、そこには限界があるのです。…。だからあまり買いかぶらないでほしいのです。(赤星進=著『心の病気と福音 下』p210)

 

 

myrtus77.hatenablog.com私はいつも母から「遅いことは猫の子でもする」と言われながら育ってきたので、強迫性が強いというのは納得できる結果である。けれど私は「完璧主義は身を滅ぼす」と自らに言いきかせているので、この程度のポイントでおさまったと思われる。しかし私の強迫性は、食器や野菜を洗っている時などに無意識に顔を出す。特に葉物野菜を洗っている時が酷い。はっと気がついて、「いつまで洗ってるの!もう充分水流したでしょ」と自分で自分に呆れるほどだ。

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 

myrtus77.hatenablog.com神はわたしたちに神の言葉を語らせようとしておられます。神を信じる者、神に従う者は、この御心を知って「主よ、お用いください。聖霊をお注ぎください」と祈らねばなりません。「神さま、救いはください。しかし、語るのは辞退します」とはいきません。

 モーセは「わたしは口も重く、舌も重い者なのです」(出エジプト4:10)と言って神の召しを断ろうとしました。エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)と言って辞退しようとしました。

 しかし神は、そのような言い訳をお認めにはなりませんでした。

 わたしたちは神の御心によって救われたのです。だから神の御心に従うのです。

 神はわたしたちの欠けも弱さも知っておられます。それでもわたしたちを選び、救いに招き入れてくださいました。そして神は、わたしたちをお用いになられるのです。