風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「命」と「愛」について、なんというシンクロ!

今日は、この台風の中、小倉から高齢の先生をお招きしての礼拝であった。

お説教は以下のようにして始まった。

 律法学者はイエスさまに、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょう」と尋ね、イエスさまは「愛」でお答えになりました。「命」と「愛」はそれぞれ大きなテーマで、この二つはどのように結びついているのでしょう。

 「命」とは何でしょう。命といえば、まず《身体的、生物学的、医学的面》から考えることができます。呼吸をしている、血液が体を流れている、健康である、病んでいる。しかし、呼吸をする、血液が流れるということは自分の意志、人間の意志、努力で自由にできることではありません。人の力で自由にできるなら人は死なないでしょう。それなら命は自分と関係がないのかといえばそうではありません。

 創世記2章に、神さまが「地の塵」で「人」を造り、「息」を吹き入れ、人は生きる者になったというみ言葉があります。人は自分で生きているのではなく、生かされているのですね。生かされているとは、神さまが命の息を吹き入れ、その息をいただき、命をいただき、愛をいただいて、それを人間の愛、自分の愛に転化して命を生きるのです。

 生きているとは、生きる意味や目的をもっている。愛し愛されて豊かな交わりの中に命があるというのです。ここに命と愛が一つであるということが見えてきます。良い命を実現し成就するのが愛です。命の中身は愛を生きるということです。愛のない命は命を生きているとはいえません。命のもつ内容、内実は、「愛」という姿、形で現れ、表現されます。

 

いま病床にある愛する○○牧師のためにお祈りします。
病む牧師を通しても霊的恵みがこの群れに注がれますように。
御癒しを与え、ふたたび牧者の務めをなさしてください。
その日まで長老、執事、会員の祈りと奉仕によって
教会の働きをなさしめ、あなたの御旨がおこなわれますように。(説教後のお祈りから)

 

 

このお説教をお聴きして、夕方、他教会の先生のお説教をお聴きすると、そのお説教はこんな風に始まったのだった。

0:47~

聖書が証言する神ヤハウェが人間の命の道として旧約聖書で示された「神を愛する、人を愛する、愛の中に生きること」、そのことが命の中を生きることだと。この弟子たちはそれが正に出来なかった。

https://drive.google.com/file/d/1YbSpR8pHOMCiAHfSpAVgzntu_VnnEYrB/view 

 

 

 

 

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