風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

先ずは西田幾多郎から(礼拝後の研修会で頭の中がヒートアップ!)

礼拝後に行われた『日本伝道のいま、これから』という講義のレジメの一部。

 

昼食前の一時間位の中で、ソシュールからレヴィ=ストロースまでポストモダンについて取り上げ、分かりやすく解説して、しかも大事な点をきちんと伝えるから、この先生の頭の中はどうなっているんだろ!と思ってしまった。

興味深い内容が満載だったので、その後の私の頭の中は、エキサイト、ヒートアップ。

ブログで吐き出さないと治まりそうにない。

 

先ずは西田幾多郎から。

西田が滝沢克己にカールバルトに師事することを勧めたという話は聞いたことがあったが、バルトが『教会教義学』の中で、仏教について触れているというのは知らなかった。

キリスト教と仏教との対話というと、ティリッヒが為してきたことだと思うが、ティリッヒについて言及されなかったのは残念だったが、西田幾多郎が著書の中で、ガラテヤの信徒への手紙2:20「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」について言及しているというのには驚いた。

 

このガラテヤの信徒への手紙2:20は、カラマーゾフの兄弟と密接に関連した御言葉として、かつてブログに書いた聖書箇所だったからだ。

myrtus77.hatenablog.jp

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「内住」か「内在」かは分からないがこういったことを表しているのが、ガラテヤの信徒への手紙だろうと思う。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤの信徒への手紙2:20)

(略)

しかし私には、ドストエフスキーがこの二つの事柄を同時に描き出しているとしか今となっては思えないのである。つまり、ソーニャをイエス・キリストとして描いているということと、ソーニャを『罪と罰』以前にイエス・キリストを魂の内に迎え入れた人間として描いているという二つの事柄を。私が後者に言葉をつけるとするなら、「受イエス・キリスト」としたいと思うが・・。

さて、このように考えると、「受イエス・キリスト」という出来事は私たちにも起こりうるということである。

 

 

 

おかげで、

お帰りの際にみかんを持っていって頂こうと思って用意していたのをすっかり忘れて、今日になって野菜室を覗いて思い出した。