風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神は我々と共におられる」(ヘブライ人への手紙2:9~18)

myrtus77.hatenablog.com夫は、良く、「僕は自分の語った言葉じゃなくて、聖書の言葉が後に残るような説教をしたいと思ってるんだ」と言っていた。そういう説教を目指しているんだ、と。

 

聖書の言葉が後に残るような説教を目指していたせいか、昨日代読して頂いた説教でも聖書の引用が多かった気がした。

 

「神は我々と共におられる」

 

 続く10節では「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」と語ります。

 ここで語られる「ふさわしいこと」というのは、キリストだけにしかおできにならないことだった、という意味です。罪を贖うために、苦しみを担うのは、神の御子イエス キリストにしかできないことであった、ということです。

 

 聖書が告げる罪は、関係を破壊し、絆を断ち切ります。しかし、神の救いの御業は、関係を回復し、絆を新たに創造します。罪から救うというのは、まさに、この関係の回復です。

 私たちと神との関係、人と人との関係、人と世界との関係、これらすべての関係を回復し、共に生きる絆を新たに創造するのです。

 

 11節では「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と述べています。

 キリストの救いの御業は、新たに、神の家族という関係を創り出してくださったのです。

 

 ガラテヤの信徒への手紙3章28節が「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と語るように、皆がキリスト・イエスにおいて一つとされたのです。

 

 イエスは、罪によって破壊され失われてしまった絆を、救いの御業によって「キリスト・イエスにおいて一つ」としてくださり、神の家族としてくださったのです。

 

(略)

 

  救いについて説明するのに、溺れている人に神が手を差し伸べられるという譬えが使われることがあります。この譬えで言われるのは、一人ひとりの前に、神の救いの御手が差し出されている。その神の御手をつかむことが大事だということです。

 しかし、キリストは、この譬えで言われているように、決して、安全な岸辺から手を差し伸べられるのではありません。キリストは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、試練の中にある者、苦しんでいる者の気持ちもつらさも、悲しみも分かっていてくださって、そこからわたしたちを助け出してくださるのです。

 今、述べた譬えで言うと、キリストは手を差し伸べておられるのではなく、罪に溺れ、苦しむわたしたちのところへ飛び込んできてくださったのです。苦しみも痛みも、その身に負って、救い主となってくださったのです。

 

 イエス キリストは、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア 1:5)ただ一人のまことの救い主なのです。イエス キリストこそ、インマヌエルの主、「我らと共におられる」(マタイ 1:23)お方なのです。

 

(略)

 

 聖書は語ります。ペトロの手紙二の1章19節「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」

 

 イエス キリストこそ、インマヌエルの主、わたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。 祈ります。

 

(全文→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2018/01/02/144701

 

 

クリスマスの馬小屋でなくて、舞台裏でまだ咲いている黄色い小菊。