今年して頂いた長老のお説教がキリストで締めくくられていたので、12月号の『聴く』に掲載させて頂こうと思った。
このお説教を読み返していて、夫が言っていた言葉を思い起こした。
夫は、良く、「僕は自分の語った言葉じゃなくて、聖書の言葉が後に残るような説教をしたいと思ってるんだ」と言っていた。そういう説教を目指しているんだ、と。
この長老の説教は、そんな風な構成になっている、と思った。
ただ、発行した後に、2ページ目の最初の方など、聖書の言葉の後に説教者の言葉を続けないで、改行すれば良かったなぁ、と思った。こんな風に、
コヘレトは続けます「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地」(1:3-4)
人の世代が変わっていっても、人々は同じ生活を続けていきます。「私の一生とは何なのか」、「私の生きている意味とは何なのか」を追求しても答えは見つかりません。そこで出てくる言葉が「空しい」だと思います。
コヘレトは語ります「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(1:3-7)
人は生活に苦労しますが、天地は人と関係なく動き続けます。人がこの世で苦労して得た物はどうなるのでしょう?どこにも持って行けません。その人が生きた証しもそのうちに消えてしまいます。
聖書の言葉が後に残るということでは、訳というものも非常に重要になると思える。
聖書の中でも「伝道の書」というのは若者の心を捉える箇所ではないかと思う。私も、若い頃、口語訳で伝道の書を読んで心を捉えられたものなのだが、新共同訳で読んだ時は、なんと心に響く訳かと思った。
コヘレトは言う。
なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。(コヘレトの言葉1:2)
口語訳だと、
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。(伝道の書1:2)
口語訳は、仏教の書かと思う(笑)。
今回調べてみて面白いと思ったのは、聖書協会共同訳。
コヘレトは言う。空の空 空の空、一切は空である。(コヘレトの言葉1:2)
なんか、口語訳と新共同訳のあいだ採ったみたい(笑)。
白い雲は流れ流れて 今日も夢はもつれ 侘しく揺れる
悲しくて悲しくてとてもやりきれない
この限りない空しさの救いはないだろうか(『悲しくてやりきれない』より)
これは、若い頃の私の愛唱歌の一つ。